始皇帝即位の立役者・呂不韋

「長平の戦い」は、のちの始皇帝・政(せい)が生まれる前年のこと。このころ、彼の父で昭王の孫にあたる子楚は、なんといくさの相手である趙の都に人質となっていた。故国である秦が、げんざい身を置く趙に決定的な大勝をおさめてしまったのだから、命さえあやぶまれる身の上であることは言うまでもない。

だが、そんな彼に手を差しのべる人物があらわれた。呂不韋(りょふい)という豪商がそれである。子楚は20人以上いる子のひとりにすぎなかったが、利用価値があると踏んだのだろう、「奇貨居くべし(掘り出しものだ、押さえておこう)」といって接近した。秦本国の有力者にはたらきかけ、子楚を太子とすることに成功する(第9回参照)。のみならず、いよいよ険悪となった情勢を睨み、趙の都から子楚を脱出させたのも彼だった。

また、始皇帝の生母がもと呂不韋の寵姫であったため、彼こそ実の父であるという説までささやかれている。むろん伝承の域を出ないが、呂不韋がいなければ、のちの始皇帝・政が王となれた目はきわめて小さい。それどころか、幼くして趙の都で殺されていた可能性も高いから、彼こそ「始皇帝」を生んだ男だとは言えるだろう。

子楚は在位3年にして没し、政が13歳で王位につく。呂不韋は父の代からひきつづき宰相に任じられた。3000人の食客をかかえ、現代まで伝わる「呂氏春秋」という書を編纂させるなど、絶大な勢威をふるう。が、太后(政の生母で、呂不韋の寵姫だった女性)の愛人である「ろうあい」が反乱をくわだてた際、同心を疑われて罷免、ほどなくみずから命を絶つこととなる。政が天下統一戦に乗りだしたのは、呂不韋の死から5年後。大願をはたし、中国最初の皇帝となるには、そこから9年しかかからなかった。

後進国と目されていた秦は、商鞅いらい100年あまりで天下を統一するにいたった。だが、こうして振りかえれば、その功労者ともいうべき人物がそろって天寿をまっとうしていないことに気づく。秦にかぎらず、国家の誕生には、あまたの流血を必要とするのだろう。歴史にふれることは楽しみでありよろこびだが、胸の隅にこうした視座を持っていてもよいように思うのである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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