『麒麟がくる』第2話で斎藤道三の稲葉山城を攻めた織田信秀(演・高橋克典)。光秀の叔父・明智光安(演・西村まさ彦)が「性懲りもなく」と吐き捨てたように、信秀は、再三にわたって隣国・美濃に攻め入り、さらには三河との攻防を繰り返した。42年の短い生涯の多くを戦いに費やしたといっても過言ではない。

第2話で描かれた「加納口の戦い」は、『信長公記』に概要が簡潔に記されている。尾張国内から兵を募り、一か月は美濃国を攻め、その翌月には三河の国を攻めたと信秀が戦いにあけくれていたことを記した後に、「加納口の戦い」について触れている。

(天文16年)9月3日に美濃に攻め入り、村々に火をかけたこと、9月22日には稲葉山のふもとの村々に放火、城下の町にも火をかけたという。『麒麟がくる』ではいったん籠城した斎藤道三が頃合いを見計らって出陣し、不意をつかれた織田軍が壊滅的な打撃を被った様子が描かれたが、『信長公記』には、斎藤道三の反撃が、申刻(午後4時前後)と時間まで記されている。

ドラマの中で、弓で射られて討ち死にした織田信康(信秀弟)や熱田大神宮宮司でありながら参陣していた千秋季光(せんしゅう・すえみつ)など、織田軍の5000人ばかりが討ち死にしたことが記録されている。

5000人討ち死にの数字が正確かどうかはともかく、道三に大敗した織田信秀。嫡男の信長と道三息女の帰蝶との政略結婚が検討されるのは、「加納口の戦い」の織田軍敗北を契機とする。交渉にあたったのが平手政秀である。

●合戦の合間に朝廷に多額の献金

「加納口の戦い」は、天文13年説、天文16年説、二度あった説など不明点が多く、それだけ信秀が頻繁に軍事行動を起こしていたために混乱したとも思える。

実は、同じように、天文11年説、天文17年説、二度あった説と混乱しているのが、織田信秀と今川義元との間で交わされた「小豆坂の戦い」である。現在の愛知県岡崎市で行なわれた合戦は、松平清康(徳川家康の祖父)死去後に不安定になった西三河を巡って戦われた。

織田信秀と今川義元との間で戦われた小豆坂の戦い古戦場跡(愛知県岡崎市)。桶狭間の戦いの十数年前から織田、今川の小競り合いは続いていた。

織田信秀と今川義元との間で戦われた小豆坂の戦い古戦場跡(愛知県岡崎市)。桶狭間の戦いの十数年前から織田、今川の小競り合いは続いていた。

小豆坂古戦場の現地説明看板。

小豆坂古戦場の現地説明看板。

どの説が正しいのかにはここでは触れないが、信秀が面白いのは、美濃や三河などで合戦を繰り返している合間をぬって、朝廷に多額の献金を行なっていることだ。

興福寺多門院の僧侶らによる日記『多門院日記』には、〈内裏ノ四面ノ蓋ヲ尾張ノオタノ弾正ト云物進上〉と皇居の修繕費を負担したことが驚きをもって記されている。その額4000貫。同じ年の今川義元の献金額が500貫だったから破格の献金額であった。

信秀の拠点・尾張は、守護家(斯波家)の下に守護代家(織田家)が二家あった(上四郡と下四郡)。信秀と信長の〈織田弾正忠家〉は、尾張下四郡の守護代〈織田大和守家〉配下の三奉行の一家に過ぎなかった。

それにもかかわらず合戦や献金などの資金を捻出できたのは、織田弾正忠家が、経済の要衝・津島や熱田を支配下においていたことがあげられる。金銭的な余裕があったからか、せわしない人生を好んだのか。信秀は、勝幡城、那古野城、古渡城、末盛城など次々と拠点を移動している。後年、信長もまた、清須、小牧山、岐阜、安土と移り住んでいるのは、父のDNAを受け継いでいるようで面白い。

そうした経済的背景や親子関係が『麒麟がくる』で描かれるのか否かにも注目していきたい。

構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり

 

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