蜀の滅亡と孔明の子孫

孔明は丞相(じょうしょう=宰相)として国じゅうの尊崇をあつめる存在だったから、遺児である瞻の前途は順風満帆というほかなかった。17歳で内親王を妻にむかえ、以後、目覚ましい出世をとげる。亡父の威光は絶大で、なにか慶事があると瞻の功績だともてはやされるのが常だった。母とも目される黄氏の没年はまったく不明だが、彼をきびしく導ける人物が身近にいなかったことは想像に難くない。

孔明の後継者といえば、ほかに大将軍の姜維(きょうい。202~264)が有名だが、息子と愛弟子ともいうべきこの二人は、あまりうまくいっていなかったらしい。瞻はいくさに明け暮れる姜維のため国が疲弊しているとし、彼の軍事権を剥奪して国内にとどめるよう主張していたという。国政は宦官の黄皓(こうこう)に牛耳られ乱脈の途をたどっていたが、残念ながら瞻がこれを除こうとした話は伝わっていない。

263年、蜀に衰亡の兆しありと見た魏軍が、険阻な山道を踏み越えて領内に侵攻する。瞻は敵軍の討滅を命じられたが、目だったいくさもせぬうちに先鋒隊が敗北を喫してしまう。蜀の生命線ともいうべき綿竹(めんちく。四川省綿竹市)まで撤退した瞻は肚を据えたのか、ついに魏軍と矛をまじえる。降伏すれば王に取り立てるという勧告をうけたが、激怒して退けた。ここで長子の尚(しょう)とともに戦死、享年は37歳である。父の名をはずかしめない散りぎわであった。とはいえ、その胸中は知るべくもないが、決戦をためらっているうちに反撃の機を逸したとみえるのも確かである。「(瞻が)知恵と武勇には欠けていたものの、国を裏切らず、父の志に沿った」という評がのこっているが、的確というべきではなかろうか。

孔明は兄の瑾(前出)へあてた手紙で、わが子・瞻について「利口ですが、大人物にならないのではないかと案じられます」と記している。養子にもらいうけた喬を死なせてしまったという引け目があっての表現かもしれないが、結果としては父の評があたったことになるだろう。

蜀はこの戦いで滅亡するが、瞻の次男・京(けい)はのち三国を統一した晋に仕え、生涯をまっとうする。孔明の血脈が次代へ受けつがれたことに安堵の気もちを覚えるのは、筆者だけではあるまい。

一方、魏や呉につかえた諸葛一族にも、乱世の波は容赦なく押し寄せている。彼らの命運については、項をあらためて述べることにしよう。

後編につづく】

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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