取材・文/柿川鮎子 写真/木村圭司

「犬」と相手をののしり合った鎌倉武士の大ゲンカ

映画や小説では相手を罵りあうのに、「狗(イヌ)」や「犬畜生」など、犬という言葉を使います。日本だけではなく、英語でも雌犬を指すbitchを、女性に対する蔑称として表現します。トランプ大統領が演説で、テロリストをson of a bitchと強く攻撃するのを見たことがある人も多いでしょう。

犬はなぜか相手を蔑む言葉に使われていますが、日本では鎌倉時代から、武士たちの間で「犬野郎」とか「犬畜生」、「何々の犬」と相手を罵るケンカが行われていました。建長6(1254)年10月に完成した古今著聞集(ここんちょもんじゅう)には、相手を犬呼ばわりした武士のケンカの記録が残っています。

古今著聞集は今昔物語集・宇治拾遺物語とともに、日本三大説話集として有名な、世俗説話集です。伊賀守・橘成季(たちばなのなりすえ)が編纂し、内容は事実に基づいた古今の説話でした。

古今著聞集、国立国会図書館アーカイブズ

古今著聞集、国立国会図書館アーカイブズ

将軍源実朝の鎌倉御所に、御家人達が集まりました。当時のナンバーワンは執権北条義時で、次に相模(神奈川県)の豪族の三浦義村(みうらよしむら)が座っていました。そこへ、下総(千葉県)の豪族、千葉胤綱(ちばたねつな)が北条義時と三浦義村の間に割り込んで、さらに上席に座ったのです。

義村は当時50歳ぐらいで、胤綱は数えの12歳。おじいちゃんと孫の年齢差です。ほとんど子どもの胤綱が自分の上席に堂々と座り、頭にきた義村は「千葉の犬は寝床を知らねえようだ」と犬呼ばわりします。現在ならばおっかないおじいちゃんに怒鳴られて、びっくり泣き出す小学5年生でしょうが、胤綱はひるみません。平然として、「三浦の犬は友達を喰らうらしいな」と切り返して周りを驚かせました。

 義村しかるべく思はで、憤りたる気色にて「下総犬は、ふしどを知らぬぞよ」といひたりけるに、胤綱少しも気色かはらで、取りあへす「三浦犬は、友をくらふなり」といひたりけり、和田左衛門が合戦の時のことを思ひていへるなり。由々しくとりあへすはいへりけり(古今著聞集、巻第十五「千葉介胤綱三浦介義村を罵り返す事」)

なぜ胤綱が「友達を喰う」と言ったのか。それは和田合戦と呼ばれる内戦で、義村が和田義盛を裏切って勝利を得た行為を指していました。誓約を交わしていた友人や兄弟までも、裏切ったのです。まだ合戦の終結から間もない時で、多くの人々の間に、義村の裏切り行為に対する記憶が残っていました。胤綱の行為は、裏切りを許さない武士の心意気を表したものとして、噂になったのでしょう。天晴れな返しだと評判になり、古今著聞集に掲載されました。これは相手を犬と罵り合った、最古の記録のひとつです。

人間と犬との歴史は古く、約2~4万年前から、身近な動物でした。それなのに「犬」は蔑みの言葉として使われてしまいます。理由はいろいろ考えられますが、英語のbitchには犬の繁殖行動に由来するという説があります。犬は他の動物と異なり、交尾中、すぐに離れることができない特殊な身体の構造になってしまうため、人に見られても逃げることが難しく、すぐに止められません。

江戸時代、犬は鷹狩用の鷹の餌に

江戸時代、犬は鷹狩用の鷹の餌に

明治時代、日本人が犬を愛玩動物として飼育するようになるまで、犬は誰の所有物でもなく、共同体にいた里犬でした。猟犬など一部は使役犬として役に立っていましたが、犬と人との間に特別な関係はありません。人々の生活の近くにいて、生ゴミを食べて処分してくれる以外、互いに無関心なので、手軽な蔑みの言葉として「犬」が使われたのではないかと考えられています。

イヌタデ、イヌサンショウなど、植物でもイヌがつく名前はたくさんありますが、どの植物も身近に生息しているものばかりです。特に利用価値が高かったり、高値で取引されるような草花ではなく、ありふれた植物ばかりです。貝原益軒(1630~ 1714年)は、著書「大和本草」にて「物に相似て賤しき物を犬と云」と書き残しました。ごく身近な存在だったからこそ、軽んじられたようです。

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリは実の形から名前がつきました

オオイヌノフグリは実の形から名前がつきました

言葉のもつイメージは時代とともに変化しますが、犬という言葉も安らぎや愛、友情や信頼を表す言葉に変化していくのではないか、と想像しています。最近は犬と人が見つめあうと、互いに幸せホルモンのオキシトシンが分泌されることが明らかになっています。種を超えて愛情が育まれることが明らかになった今、犬と罵り合った義村と胤綱のケンカがほほえましくもあります。

文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。

写真/木村圭司

 

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