文/晏生莉衣

ジェンダー ニュートラルで進化する英文法(前編)【世界が変わる異文化理解レッスン 基礎編7】

ラグビーワールドカップ、東京オリンピック・パラリンピックと、世界中から多くの外国人が日本を訪れる機会が続きます。楽しく有意義な国際交流が行われるよう願いを込めて、英語のトピックスや国際教養のエッセンスを紹介します。

* * *

次の簡単な英語の文章には正しくない箇所が一つあります。どこでしょうか。

▲Everyone has his own opinion.(誰もが自分の意見を持っています。)

 
どこが正しくないのかわからないという方は、前回のレッスンを思い出しながら、読み直してみてください。わかった方にはもう一つ、今度はもう少し長い例文の中から、同じように正しくない箇所を見つけてください。

▲When you see a doctor, he will ask you about your symptoms. (診察を受ける際、医者は症状について尋ねるでしょう。)

 
答えのヒントはジェンダーだと言えば、もうおわかりですね。最初の例文で問題となる箇所は“his”、二番目の例文では“he”の部分です。男性形の代名詞だけを使って表現しているのはジェンダーバイアス(ジェンダーに関する偏見)がかかっていると捉えられます。最初の例文の「誰も」には男性も女性も含まれますし、今の世の中、女性の医師はたくさんいますから、二番目の例文は社会的な現実を正しく反映していないことにもなります。

それではどう書けばよいのでしょうか。文章の形を変えずに直すと次のようになります。

○Everyone has his or her own opinion.
○When you see a doctor, he or she will ask you about your symptoms.

 
最初の例文は“his”ではなく“his or her”、二番目の例文は “he”だけではなく“he or she”とするか、“s/he”のような書き方をします。

前回のレッスンでは、社会の変化から職業の名称がジェンダー ニュートラルなものに改められていることを取り上げましたが、それと同様に、三人称の人称代名詞の単数形を使う際には、男性形だけでなく女性形も含めるよう改められています。以前はhe、him、hisという男性形の代名詞が人の総称として使われていましたが、現代では、そのように男性のみを表す言葉遣いや表記は不適切とみなされます。前回出てきた“Politically incorrect” です。

ジェンダー ニュートラルな人称代名詞

社会の変化によって定着した男女併記のルールですが、このところ、英語はジェンダー に関する意識改革によってさらに進化しつつあり、従来の文法を変えようとする動きに発展しています。その一つが「単数形のthey」(singular they)と呼ばれているものです。

最初に出した例文を使って説明すると、男女併記のルールに従って、

”Everyone has his or her own opinion.”

 
と書くところを、

“Everyone has their own opinion.”

 
というように、単数の主語のEveryoneの所有格としてtheirを使います。この時のtheirは複数形ではなく、「単数形のthey」の所有格として使われているのです。

“they” は男女にかかわらず使える、つまり、ジェンダー ニュートラルなので、これを複数形だけではなく単数形としても使おうという趣旨ですが、従来の文法では間違いなので、「単数形のthey」にまだなじみのない日本人がこうした文章を読んだら、文法的に間違っているように思ってしまうでしょう。

その懸念は英語圏でもあって、「単数形のthey」は英語の混乱を招くという反対論も存在します。その一方で、英語を扱う多くの専門業界が容認の方向に舵を切っており、社会的には浸透しつつあります。すでに1998年、オックスフォード英英辞典に、「単数形のthey」が加えられました。標準英語ではまだ広く使われていないという注記付きでしたが、10年が経ち、2010年第3版の新オックスフォード米語辞典になると、theyの単数形は一般的になっているとされています。

辞書の世界以外でも容認の姿勢が広がっています。アメリカの学術団体「米国地方言語学会」が決定する「今年の言葉」というものがありますが、2015年の「今年の言葉」に「単数形のthey」が200名以上の言語学者らによって選出されました。2017年には、メディアやPR業界で広く使われているAP通信編集発行の『APスタイルブック』にも「単数形のthey」が加えられました。

おなじみの文学作品でも「単数形のthey」は使用されていた

こうしてなにやら流行語のようになっている「単数形のthey」ですが、実は最近始まったものではなく、古くはチョーサーやシェイクスピアの古典に「単数形のthey」が使われた例があるとされています。

さらに、世界的によく知られている文学作品の中にも使われています。その一例を紹介しましょう。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)の一文です。

“‘If everybody minded their own business,’ said The Duchess in a hoarse growl, ‘the world would go round a deal faster than it does.’”(「『皆がおせっかいをやめれば、世の中、もっともっと簡単にいくでしょうよ』公爵夫人がしゃがれ声で怒鳴りました。」)

 
ユニークなキャラクターとして登場する公爵夫人の教訓として知られていますが、青字の部分に注目してください。“everybody”という単数の主語を“their”で受けています。

このように、クラシックな作家による変則的なtheyの使用例はいろいろとあります。使用例が見つかっているだけでなく、男女の区別のない三人称の人称代名詞単数形の必要性を訴える声は、英語の歴史の中で古くからあったこともわかっています。古い時代のそうした意見は、はっきりとしたジェンダー平等の観点から発せられたというよりは、誰にでも使える単数形がないことの不便さと不自然さという、英語の言語としての欠点を感じていたことが背景のようです。二人称代名詞のyouが単数、複数の両方に対して使えるように、theyも複数形だけでなく単数形でも使えることができるなら、『不思議の国のアリス』の公爵夫人ではありませんが、「世の中、もっともっと簡単にいくでしょうに!」と、執筆にかかわっていた人々は特に感じていたようです。

そして現在の「単数形のthey」のムーヴメントは、heあるいはsheという男女二分法で自分を表すことに心地の悪さを感じてきた人々が声を上げたというLGBTQの影響を強く受けています。過去からの要求と現在の要求を合わせ、英語の不便さからの開放と男女二分法からの開放のどちらもかなうなら、一挙両得というもの。それが「単数形のthey」をポジティブに受け入れる世論が英語圏で広がりをみせている理由のひとつなのでしょう。

勢いが止まらない「単数形のthey」ですが、昨今はそれ以外にも、さまざまなジェンダー ニュートラルな人称代名詞が考案されてブームのようになっています。それについては次回、取り上げたいと思います。

文・晏生莉衣(あんじょうまりい)
東京生まれ。コロンビア大学博士課程修了。教育学博士。二十年以上にわたり、海外で研究調査や国際協力活動に従事後、現在は日本人の国際コンピテンシー向上に関するアドバイザリーや平和構築・紛争解決の研究を行っている。

 

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