始皇帝と織田信長

始皇帝は、それまで国によってばらばらだった度量衡(どりょうこう。長さ・容積・重さの単位)や文字、車輪の幅などを統一、また各地に王をおくのでなく、中央から派遣した役人が地方政治をおこなうこととした(郡県制)。きわめて合理的で、効率を重視した改革といえる。くわえて、これは秦という国の伝統でもあるが、能力があれば他国の出身者や身分の低い者でも、ためらわず登用した。わが国の織田信長を連想するのも、筆者だけではあるまい。

また、彼の性格について以下のようなエピソードが残っているが、これもどこか信長を思わせるものである。天下統一戦の過程で、強敵・楚(そ)と兵をまじえた折のこと。60万もの大軍を託された将軍・王翦(おうせん)が、勝利したあかつきには、豪壮な邸宅をたまわりたいと政にねだった。これ自体はふしぎなことでもないが、いささか所望の度が過ぎており、快諾されたあとも、いくたびとなく無心をつづけたという。見かねてたしなめた人に向かい、王翦がこたえる。「いま私がひきいているのは、秦の全軍というべきものである。おそらく王は猜疑の目でこちらを見ているにちがいない。褒美に執着しているだけで野心などないと思っていただきたいのだ」

苦悩に満ちた少年期を送ったため、かんたんに他者を信じなくなった、というほど単純なものではないが、まったく影響がないわけでもないだろう。始皇帝という人物を考えるとき、ヒントになるエピソードではある。筆者個人は、それでも全軍をあずけた点に彼の度量を感じるし、老練というべき王翦の対応も相まって、決してきらいな挿話ではないということを付け加えておく。

焚書坑儒の真実

さて、始皇帝がおこなった政策のうち、悪名高いのは焚書坑儒だろう。書物を焼き、儒者を穴埋めにして殺すという意味であり、彼の暴君イメージを決定づけたものといっていい。

このうち焚書は、秦以外の歴史書を焼かせ、儒教などの思想書は官蔵のものにかぎり残すよう指示したもの。実用を重視した秦らしく、医学や占いに関する本(当時は竹簡や木簡)は対象外だった。国中から書物が消えたわけではないが、思想統制を目論んだことは事実である。比較的、従来のイメージに沿った政策といえるだろうか。

が、坑儒に関してはいささか事情がことなってくる。穴埋めにされたのは、世間をたぶらかすとされた方士(神仙の術を使う者)たちであり、これが儒者とすり替えられたのは漢代以降のこと。このころすでに儒教が国家の中心におかれているから、始皇帝の暴虐ぶりを強調する意図と見ていいだろう。

秦帝国は始皇帝の死後、大規模な反乱が相次ぎ、わずか数年でほろびる。あまりにも短時日にして国家が消えてしまったため、自国の歴史をじゅうぶん整備することもできなかった。秦を擁護する記録はほとんど残らず、始皇帝も暴君のごときイメージがながく伝わることとなる。が、近年は、秦代の竹簡や木札といった資料がぞくぞくと発見されている。これらの研究をもとに、あらたな始皇帝像がつくられることを心待ちにしたい。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

 

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