「倭王」とされた厩戸皇子
厩戸は蘇我馬子とともに女帝を支え、遣隋使(複数回あるが、有名な小野妹子の派遣は607年)、冠位十二階の制定(603)といった、われわれもよく知る政策を次々と実現してゆく。後者は豪族などの位を冠の色であらわしたものだが、氏族でなく個人を評価して与えられるという点で、古代としては画期的な制度である。が、ここでも蘇我氏は別格とされ、十二の位には属さず冠を授与する側だった。厩戸の内心は知るべくもないが、蘇我氏を排斥するのではなく、その力をかりて政治を推し進めようとしたのではないだろうか。
彼が推古朝で重きをなしていたあかしとして、中国の史書「隋書」倭国伝の記事が挙げられる。隋からの使節が面会した倭王は男子だと思えるくだりがあるのだ。女帝にかわって倭王と認知されうるのは、甥である厩戸以外にない。中国では原則として女帝が認められていないため、推古でなく厩戸が対面したのかもしれない。
また、厩戸といえば仏教への帰依が知られている。彼みずから執筆したとされる経典の注釈書には、やはり信憑性をめぐって議論が絶えないが、法隆寺を建立(605年ごろ)したことは事実とみていい。このとき仏教は、伝来して50~70年程度しか経っていない、いわば新興宗教だから、青年・厩戸の心をとらえるエネルギーに満ちていたのだろう。仏教にそそいだ彼の情熱が、法隆寺を拠点にして神格化へつながったとも考えられる。じっさい、「日本書紀」以外で彼の生涯を辿りうる史料は、その多くが法隆寺に由来するものである。
厩戸皇子はさまざまな足跡を歴史上に残し、西暦622年、49歳で没した。蘇我馬子に先だつこと4年、推古女帝からは6年である。その後、蘇我氏の専横はしだいに増し、643年には厩戸の子・山背大兄(やましろのおおえ)王が馬子の孫・入鹿に襲撃されて自害。これもまた、厩戸と一族の存在感が無視できないものであった証左だろう。中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我氏を討滅したのは、そのわずか2年後であった。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。