文/砂原浩太朗(小説家)

旧渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋

新紙幣の顔になることが発表されたり、ドラマの主役として取り上げられたりと、渋沢栄一(1840~1931)の身辺がにわかに慌しくなっている。とはいえ、武将や政治家、または芸術家といった分かりやすい存在ではないから、彼がどういう人物なのか即答できる方はまだまだ少ないことだろう。「日本資本主義の父」とさえ呼ばれた男の生涯を、今このときに顧みてみたい。

500両を強要される

「国史大辞典」(吉川弘文館)では、渋沢栄一を「近代日本の指導的大実業家」と定義している。生年は1840(天保11)年。幕末維新の著名人にはこの世代が多く、たとえば栄一がのちに仕える徳川慶喜は3歳上、長州藩出身で初代内閣総理大臣となる伊藤博文は1つ下である。現在でいう埼玉県深谷市の富農に生を享けた。彼はその生涯で幾度か名を変えているが、本稿では栄一で統一する。幼時より隣村に住むいとこ尾高惇忠(あつただ。じゅんちゅう、とも)から学問の手ほどきを受け、人目を惹くほどの読書家となった。また、剣にも秀でていたようだから、あらゆる意味で恵まれた少年期を過ごしたといっていいだろう。

転機は17歳のときにおとずれる。代官から500両もの大金を献じるよう強制されたのである。これは悪代官の暴政という特殊な話ではなく、領民から何かと理由をつけ金銭を徴発するのは、当時しばしばおこなわれたことだった。父の名代としておもむいた栄一は執拗な圧迫に屈せず、その場では承諾することなく帰宅する。聡明な彼には、代官の申し条が理不尽に思えて仕方なかったのだろう。だが、父は当然のごとく受け入れ、500両を差し出してしまう。武士であれば、いかなる無体も通ってしまうのかと歯噛みしたに違いない。彼の胸に身分制度への疑いが深く根ざしたのは、このときだった。

あるじは徳川慶喜

ときは幕末であるから、栄一も当時の例にもれず尊皇攘夷論(天皇を敬い、外国を打ち払う)のとりことなる。1863(文久3)年、24歳のときには、高崎城(群馬県)乗っ取り、横浜の外国人居留地焼き討ちを計画した。横浜はともかく、なぜ高崎城なのかという疑問が湧くが、これは天下におよぼすインパクトも考えてのことらしい。生地の領主が2万石程度であったのに対し、高崎は8万石の城下であり、城じたいも徳川四天王のひとり井伊直政(1561~1602)が築いたものだった。

が、栄一のまえに、いとこの尾高長七郎(前述した惇忠の弟)が立ちはだかる。彼は江戸や京の情勢を知悉している人物で、挙兵の無謀を決死の覚悟で説いたという。この説得を受け思いとどまった栄一だが、すでに役人から目をつけられるほどの活動家になっていたらしく、ほとぼりをさますため故郷を出奔、京に身を隠すこととなった。

つぎなる転機は翌年(2月に改元して元治元年)のこと。なんと、栄一は徳川御三卿のひとつ一橋家に仕官する。同家の用人・平岡円四郎は広く天下の意見をもとめんとする人物で、栄一のような青年たちとも交友があった。そこで平岡の目にかない、スカウトされたのである。一橋家の当主・慶喜(1837~1913)は御三家のうち水戸の出身。かねてから英明をうたわれる人物で、このときは14代将軍家茂の後見職をつとめていた。

はじめは門番のような仕事を命じられた栄一だが、見る間に昇進をかさね、1年半ほどで御勘定組頭という財政をつかさどる重職につく。彼は以後も主として財務畑で頭角をあらわしていくが、これは生家がたんなる農家でなく、養蚕や藍玉製造、金融までいとなんでいたことが大いに影響しているだろう。

とはいえ、いかに能力があったとしても、おどろくほどの出世というほかない。一橋家に人材を尊重する風が行き渡っていたのだろうが、こうした出会いをつかめるのも力量のうちである。この時期、彼は西郷吉之助(隆盛)や新撰組など、幕末史をいろどる人々とも面識を得たらしい。なお、栄一をみちびいた平岡は、奇しくも同じ元治元年のうちに水戸藩攘夷派の刃に斃れてしまった。

【パリで開眼する。次ページに続きます】

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