文/砂原浩太朗(小説家)
「本能寺の変」の真相を追う(前編)はこちら
正義説~信長の暴走をとめろ
本能寺の変当日、つまり6月2日付の光秀書状には、こう記されている。「(信長)父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」。つまり、信長・信忠親子の非道は天下の秩序をみだすものだから討ち取ったというのである。この一節を発想のヒントとするのが、「非道阻止説」「暴走阻止説」と呼ばれるもの。天下のため、万民の敵・信長を討ったとする見方である。おのれ一身の動機でなく、より高い志をもっての決起という解釈だから、本稿では一歩すすめて「正義説」と名づけた。
では、信長のなにが非道なのか。従来、有力な候補として挙げられていたのが朝廷への不敬である。信長は正親町(おおぎまち)天皇に譲位をすすめ、朝廷がもちいる暦にかえて、おのれがよしとするものを採用させようとした。これらが越権として朝廷の憎しみを招いたと見られ、前編で挙げた朝廷黒幕説にもつながってゆく。
が、信長と朝廷が対立していたとする見方は、近年退潮がいちじるしい。逆に融和関係にあったという説が主流で、正親町天皇はむしろ譲位をのぞんでいたという。中世の天皇は儀式に必要な費用が捻出できないため位にとどまることが多く、その負担を申し出た信長は感謝されたはずとする。暦の問題にしても、信長がたんに合理的判断から進めようとしたものと見られている。
「われこそ国王」とうそぶく信長
ほかには、信長がみずから神のごとく振る舞いはじめたことに危機感と恐れをいだき、これを除かんとしたとする見方も「正義説」にふくまれるだろう。たしかに、1580年前後から信長には極端な言動が目立つようになる。佐久間信盛をはじめとする重臣たちをつぎつぎ追放に処し、1581年におこなわれた馬揃え(閲兵式)には、中国の皇帝が着るとされる「金紗」という服装でのぞんだ。イエズス会のヴァリニャーノが天皇への謁見をのぞんだ際、「その必要はない。わしこそが国王である」と言い放った話もよく知られている。信長の自我が異常なまでに肥大しつつあったことは間違いない。が、天下のためというだけで、多大なリスクを負って兵を挙げられるものだろうか。むしろ、暴走の一途をたどる信長へつかえることに疲れ果て、決起におよんだというほうが、個人的にはしっくりくる。
筆者も小説家であるから、人間の心理というものに興味が向かう。前編で、怨恨説から離れられないと書いたが、人がいのちを投げ出すのは、きわめて個人的な動機によるのではないかと思えてならないのだ。
いずれにせよ、「正義説」の弱点は、根拠となるのが上記の書状にある文言という点だろう。「悪逆ゆえに討ち果たした」というのは、一種の常套句と取れなくもないからである。
三職推任問題~信長、将軍位をのぞむ?
朝廷との関係で、もうひとつ重視されるのが「三職(さんしき)推任問題」。変のひと月ほど前、朝廷から信長に対して、「関白、太政大臣、征夷大将軍のいずれかへ就任させよう」という申し出があった。信長は回答を保留したが、こたびの上洛に際し、意向を明らかにするものと見られていたのである。ここで信長が将軍位をのぞむのではと恐れた光秀が、先んじて本能寺を襲撃したという説が存在する。
ただし、なぜ信長の将軍就任を阻止したかったのかという点になると、見解が分かれる。
・将軍位は頼朝以来、源氏が就くものとされていたため、平氏を称する信長の就任は認めがたいものだった(光秀は土岐源氏の流れを汲むとされる)→正義説
・自分が将軍となりたかった→野望説
・足利義昭と通じていた光秀としては、信長の将軍就任は是が非でも阻止せねばならぬものだった→黒幕説
おおむね以上のようなところである。とはいえ、そもそも信長が将軍位をのぞんだという証しが残っていないので、推測のうえに推測をかさねる弱さがある説とはいえるだろう。
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