文/砂原浩太朗(小説家)
天正10(1582)年6月2日未明、京に滞在中の織田信長は、明智光秀の急襲を受け49年の生涯を散らした。日本人なら知らぬものはないと思われる「本能寺の変」である。古来、この事件をめぐってさまざまな憶測が飛び交ってきた。諸説出つくした感もあったが、近年、きわめて有力な新説が提唱されている。この謎にとうとう解決の日がおとずれたのだろうか。
50にもおよぶ説あり
謎といっても、「本能寺の変」じたいの経緯はかなりのところまで判明している。羽柴秀吉が従事する毛利攻めの援軍として、みずから中国地方へおもむく途次、ごく少数の手勢だけを連れ都に滞在していた信長と嫡子・信忠を光秀が襲ったのだった。彼もまた秀吉への援軍を命じられて出陣の途にあり、居城である丹波・亀山城(京都府亀岡市)から本能寺への行程も詳細に伝えられている。
不明なのは、その動機に尽きるといっていい。秀吉とならぶ織田家の出世頭だった光秀が、なぜ主君を弑したのか。世の関心はすべて、ここへ向かっている。決定的な証拠がないため各説入り乱れ、数えた人によると、50にもおよぶという。
だが、いくつかの説が複合したものや、荒唐無稽としかいえぬものもあるから、検討に値するものを絞っていけば、その数はおおはばに減る。本稿ではおもな説の要点を分析するとともに、本能寺研究の最前線をお伝えしたい。
怨恨説~消え去らぬ根強さ
もっとも古くから支持をあつめているのが、「怨恨説」だろう。文字どおり、光秀が積年の怨みをはらすべく信長を討ったというものである。原因としてよく知られているのは、徳川家康を安土へ招いて饗応した際、暑さのため魚が腐り、激怒した信長が接待役の光秀を叱責・解任したという話。
さいしょに告白しておくと、筆者自身は少年期にこの説を刷りこまれた口なので、その後いくら史料や研究書へ目を通しても、心情的にはここから逃れられていない。魚のエピソードは「川角太閤記」という書物による創作と見られ(光秀が接待役だったのは事実)、筆者もいまはこの話を信じているわけではないものの、理屈抜きにいえば「怨恨説」がしっくり感じられてしまうのだ。フィクションの影響力とは、つくづく根強いものである。
とはいえ、それはあくまで感覚的な話。怨恨説の原因とされる逸話は、現在ほとんどが否定されている。とくに有名なのは、つぎの三つだろうか。まずは、変に先立つこと3か月、武田氏滅亡の折に、光秀が「われらも長年骨折りの甲斐あって」と洩らした。この感慨が信長の逆鱗にふれ、 「おまえごときが何の骨折りか」と 折檻をうける。つぎは丹波攻めのおり、光秀が母を人質として敵方に開城させたものの、信長が城主一党を処刑したため母が殺されてしまったという悲話。最後は、光秀の領地である丹波・近江を召し上げ、出雲・石見を自力で切り取るよう命じられたという件。事実とすれば、どれも動機となっておかしくないようなことではある。
が、これらはいずれも江戸期の書物に記されているもので、信憑性には疑問が呈されている。むろん、後代の記述すべてが偽りとはかぎらない。こうした挿話のなかに真実がひそんでいる可能性もあるわけだが、フィクションからはなれて歴史的事件をあつかう場合、前提として同時代の史料にもとづくべきだろう。
ただ、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスも光秀が信長から足蹴にされたと伝えているから、打擲や叱責がなされたのは事実と見ていい。相手は光秀にかぎるまいが、こうした振る舞いはしばしばあったのではないか。やや未練がましく付け加えると、直接の動機かどうかはともかく、怨恨があったということ自体は、現在もはっきり否定されているわけではない。
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