蝮、梟雄などといわれて恐れられた美濃の戦国大名・斎藤道三。
これまで世にでた小説や歴史ドラマなどでは、策略家にして野心家、無慈悲に敵を欺き、容赦なく殺すといったイメージで描かれてきた。
しかし、池端俊策さんが脚本を手掛ける大河ドラマ『麒麟がくる』では、少し違った角度から人間道三を見つめている。道三を演じるのは、1998年放送の『徳川慶喜』以来、実に22年ぶりの大河ドラマ出演となる本木雅弘さんだ。
道三を演じるにあたっての意気込みを伺ったところ、事前に綿密に資料を読み、入念に下準備をしたうえで役に取り組む本木さんの姿勢が見えてきた。
「斎藤道三というのは、一代でのし上がったわけではなく、父親が油売りから成り上がり親子二代で国盗りをしたというのが近年の通説です。つまり、次世代の道三自身は武士の子として生まれ育ったある程度エリートなんです。武士としての磨かれた素養は勿論のこと、かつて商人でもあった父が残した経済への意識も強い。一国をひとつの大きな会社として見た場合、その主である道三は有能な経営者として非常に高いスキルを持っていたと思うんです。相当具体的な戦略がなければ、大勢を束ねて戦で勝ち上がっていくことはできませんから」
自身が演じる斎藤道三という人物について、本木さんはこう分析する。
「これまでは野心の塊という人物にとらえられてきましたが、脚本の池端先生が、道三の時代の人々は嬉しい、悲しいっていう感情がいい意味ですごく溢れていたし、もっと瑞々しく、濃く生きていたっていうんですね。道三自身も織田信長や明智光秀を見出す先見性があったということは、やはり基本的には人間への興味が深く、生きることに愛情があった人だと思います。戦国の世に生まれた自分と真正面から向き合い、最後までその立場を全うした人だと思うんです。道三のそういうどこか筋の通った人間味を匂わせるようなお芝居ができればいいですね」
●辞世の句から読み取る道三の生きざま
道三について資料などを一通り読んだという本木さんだが、道三の辞世の句が心に響いたようだ。
〈捨ててだに この世のほかは なき物を いづくか終の 住処なりけむ〉
息子である斎藤義龍と戦った長良川の戦いに赴く際、読んだといわれるこの句は、「死んでしまえはそこで終わり、安住の地などどこにもありはしない」といった意味合いだ。
「こういう句を残して、道三は息子との戦に出ていくわけです。あくまでも現実主義。そこで自分は命を落としてもという覚悟をもって今この時代を生きるのみ!っていう揺るぎない思いを証明するような句ですよね。これはひとつの軸として心の中に持ちながら演じようと思っています。実は物語上、この最後の場面にも道三の狙いが込められているんですよ」
本木さんの話を伺うだけで、道三が持っていたであろう様々な顔が思い浮かぶようだ。
それにしても、アクの強い役であることには変わりがない。野心家というだけならばむしろ演じやすかったかもしれないが、有能な経営者であり、感情表現豊かで人間味があり、底知れぬ才能を秘めた人物なのだ。
「いやぁ、それはもう大変ですよぉ~。自分はもっと薄味に生きているので。やっぱり毎回奮い立たせなきゃいけない。例えば怒り、凄みというのも、大声だけではダメで、妙な間や目つきだけで表すとか。今後は怒りと悲しみがない混ぜに嗚咽するなんて場面があるんですが…どんな顔をすれば良いのやらと、考えるだけで肩がこります(笑)」
●鎮魂の念をこめて道三を演じる
冗談交じりに語る本木さんだが、「鎮魂」の意味でもこの役をまっとうする覚悟が垣間見える。
「義母の樹木希林さんが書き残したメモに、演じるということは鎮魂、というような意味合いの言葉があったんです。あれだけの才能と覚悟のある道三も、最後は、苦しく、親子で争い、息子に殺されるという運命を辿るわけです。道三らしい最後とはいえ、やっぱり無念ではあったと思うんですね。様々な種の戦を繰り返す中で、どこか人の道から外れ、狂気とともに生きるしかなかったと思いますし、自分の思いを託せたのは、血のつながった息子ではない、明智光秀であり織田信長だったいう意味では、きっとどこか無念さがあったと思うんですね。その気持ちを鎮めていただくように、あの時代と散った命に寄り添う姿勢で演じていけたらなと思っています」
これまでにない斎藤道三、これまでにない振り切った本木雅弘さんの演技。大河ドラマに新たな伝説が生まれる予感がしてならない。
文/『サライ』歴史班 一乗谷かおり