海外で生活することになると、たいていの場合、その国の銀行に口座を開くことが、まず、必要になります。そして、欧米の銀行では、口座を持つと同時に個人が使えるチェック(小切手帳)を用意してくれることが普通です。クレジットカード払いが主流となった今でも、チェックがあればなにかと便利で、カードや現金の代わりにスーパーのレジでの支払いにも使えますし、家賃をチェックで送るのは、今でもポピュラーな方法です。
生活には欠かせない銀行関係の手続きですが、口座を開くにもチェックを使うにも、自分の名前をサインする必要があります。しかし、「名→姓」のサインで口座を開いたのに、方針に従って今度は逆に「姓→名」でサインをすれば、まったく別のサインとして扱われてしまいますので、自分の口座やチェックが使えなくなるだけでなく、最悪の場合はサインの偽造という犯罪に問われることにもなりかねません。
説明して相手にわかってもらえればいいのですが、マネーロンダリングや詐欺などを防ぐために、海外の銀行で外国人が口座を開く場合は厳重にチェックされますから、誤解を生まないための注意がさらに必要になってきます。
銀行関係以外でも、たとえば家の賃貸や保険などの契約書類に間違って記入してしまった場合、日本で訂正印を押すように、訂正部分にイニシャルのサインをしますが、イニシャルの順が逆になれば、これもまた、まったく別人のサインになってしまいます。
海外駐在員の方々なら、海外各地と日本の間を飛行機で飛ぶことも多いと思いますが、ファーストネームとラストネームを逆にしてエアチケットを手配されてしまい、飛行機への搭乗を拒否されるというようなトラブルが発生することも、十分考えられます。
また、従来の欧米式のローマ字氏名で国際的に名を知られている研究者の日本人が、名前のローマ字表記を日本式に変えるように言われたらどうなるでしょうか。名前が逆になるだけで、それまでの海外での論文などの素晴らしい業績が、コンピューター上では特に正しく認識されなくなるケースが出てくることは避けられないでしょう。
このようにローマ字表記変更の方針は、実際に国際人として活動されている日本人にとって、様々な不都合が生じる可能性があるやっかいなものです。さきほど挙げた通り、135万人強という、全国30番目の県民数に相当する海外在住の日本人がいて、その方々の多くは「名→姓」の名前の文化の中で暮らしているのが、現在の日本の状況です。ですから、この方針をすべての日本人を対象として奨励しようとする前に、まずこうした現状に目を向けてほしいと思います。日本の首相や政府要人は、その肩書きを使って海外に行けば、ここで挙げたようなトラブルとは無縁で問題はないのでしょうけれども、実際に海外の現場にいる一人一人の日本人にとっては、それほど単純な話ではありません。
ローマ字で書くのは何のため? という「そもそも論」
海外でも日本独自の文化を誇ることは大切ですが、日本人が国際的に活躍するためには、様々な状況で、世界の主流となっているスタンダードに合わせることもまた大切です。レッスン15で触れたように、国際機関で働いている日本人にとっては、統一された国際ルールに従うのはマスト(must)です。「日本人の名前はローマ字表記でも固有文化に則るのが当然」という純日本的な問題意識だけが強調されて、ローマ字氏名の用途を含め、日本人がローマ字氏名を実際に海外で使う想定に立ったケース・スタディや議論がされないのでは、在留邦人や海外生活経験者には、リアリティを欠いた精神論のように聞こえてしまいます。
そして、これは、在留邦人に限ったことではなく、海外旅行に出かける日本人の方々にも関係してくる問題になってきます。
最後に一つ、ご参考のために実例としてつけ加えると、国連機関勤務時代、私はアフリカ人男性の上司から、ラストネームで呼び捨てにされるという数年間を送ったことがありました。上司に悪気はなく、ただなぜか私のラストネームをファーストネームと勘違いして覚えてしまったようなのです。他の外国人の同僚からは名前で呼ばれていたので、どうしてそういうことになったのかは謎なのですが、私はその上司から自分のラストネームを呼び捨てにされるたびに、「なんだか体育会系みたいだなぁ」と思いつつ、異文化理解のむずかしさを体感することになりました。「それは私のラストネームですから」と言ってみたこともあったのですが、すでに習慣づいてしまったらしく、上司は職場を去る日までその呼び方を変えることはありませんでした。
日本人の名前を欧米式とは逆の順でローマ字表記するようになれば、こんな勘違いは簡単に起こるようになるでしょう。笑い話ですむようなことならよいのですが、海外におけるファーストネームの重要性をよく理解した上で、議論を進めて頂きたいと思います。
文・晏生莉衣(あんじょうまりい)
東京生まれ。コロンビア大学博士課程修了。教育学博士。二十年以上にわたり、海外で研究調査や国際協力活動に従事後、現在は日本人の国際コンピテンシー向上に関するアドバイザリーや平和構築・紛争解決の研究を行っている。