「英会話スクールは小学校低学年から。あまりよく覚えていないんですが、私が行きたいというより、親の教育方針だった気がします。それに中学校ではハンドボール部に入りたかったんですが、親が軟式テニス部に入れというから、ハンドボールを諦めたこともあります。今思うと不思議なんですが、特に反抗する気持ちにはなっていませんでした。また、これをしなさいと強く押しつけられたという記憶も一切ないんですよ」
過保護気味ではあったものの、真希さんの家族仲は良好。父親はどんなに仕事が忙しい時でも家族サービスの時間を作ってくれていたと言います。
「覚えているのは、どんなに平日に仕事が忙しかったとしても、休日は早起きして私たちと遊んでくれる父の姿。朝から近所の公園に散歩に出かけたり、母親に内緒でアイスを買ってくれたり。父は昔からずっと優しかったという記憶が残っています。それに、家族4人で出かける機会もたくさんありました。家族旅行にもよく連れていってくれていましたし。小さい頃から寂しかった思いも一切していません。それはすごく幸せなことだと思いますね」
親との仲も良好だったからこそ、親の意見を素直に受け取ることができていたと語る真希さん。高校受験も親が勧めた女子高へと進学します。
「私はできれば共学が良かったんですが、両親が学校を調べて、就職率が高くて短大までエスカレーター式で進学できる女子高を勧めてきたので、まぁいいかなって。その学校のことはパンフレットでしか確認していません(苦笑)。女子高には受験もせずに推薦で入りました」
高校に進学すると、今まで厳しかった門限などが柔軟に。高校生活でさまざまなものを初体験したと語ります。
「門限や禁止されているもののほとんどが高校生の時に解禁になりました。実は……、高校生になって初めて1人で電車に乗りました。それまでは禁止されていたのか、1人行動をあまりしていなかったんですよ。それと、高校で反抗期に入って、母親とよくケンカをするようになりましたね。ケンカといっても、私が母親に文句を言い続けたら、母親が私のことを無視する。そしてそれがあまりにしつこいと父親が私を怒る、といったぐらいで、そこまで大きなものではありません。
さらに高校では留学という一生ものになる経験もさせてもらいました。今思えばお金も結構かかって、大変だったんじゃないかな。でも、そんなことを当時はまったく感じさせず、両親は行きたいという私の気持ちを優先してくれました」
留学に一度目の就職での挫折、そして2度目の留学。いつでも反対せずに守ろうとしてくれた両親のため、真希さんは両親に最大の親孝行をプレゼントします。
【~その2~に続きます。】
取材・文/ふじのあやこ
情報誌・スポーツ誌の出版社2社を経て、フリーのライター・編集者・ウェブデザイナーとなる。趣味はスポーツ観戦で、野球、アイスホッケー観戦などで全国を行脚している。