大河ドラマ『麒麟がくる』で、本木雅弘演じる斎藤道三に毒殺された美濃守護・土岐頼純。第3話では、尾美としのり演じる土岐頼芸が登場する。ドラマの中では、守護とはいえ頼りなさそうな雰囲気が醸し出されているが、土岐家は、源頼光を祖とする名門美濃源氏の後裔である。美濃守に任ぜられた頼光、頼国親子の子孫が、美濃に土着し、土岐氏を称した。家祖頼光の弟は、後に源義家、義朝、頼朝を輩出する河内源氏の祖・頼信である。
源平合戦や承久の乱など中世の戦いには必ず名の残る、武家としては名門中の名門一族で、『太平記』の時代には、バサラ大名・土岐頼遠が、足利尊氏に従い、鎌倉幕府倒幕の戦いや南朝方の戦いで功績をあげた。一方で、酒気帯びの状態で光厳上皇が乗る牛車に対して狼藉をはたらいた罪で、斬首されるという事件を起こしたことでも知られる。
光厳上皇に対して、「院というか。犬というか。犬ならば射ておけ」と矢を射たともいわれ、歴戦の功臣であったにもかかわらず極刑に処された。
幸い、土岐家は甥の頼康への承継が許され、美濃だけではなく尾張、伊勢の守護にもつく。勢力を増したことから、後に、足利義満の「有力守護分断政策」に翻弄され、一族間の争いが続くことになる。美濃国内では、守護代の斎藤氏や長井氏などの台頭を許すことになり、徐々に勢力が衰えていくのである。
●頼芸の子孫は、江戸幕府旗本に
応仁の乱勃発後には、戦乱を逃れて関白一条兼良などの公家が美濃に下向して、土岐氏の居城・革手城に身を寄せ、美濃に都文化が花咲いた時期もあった(西の山口、東の革手とも称された)。
そもそも土岐家は、前述のバサラ大名・頼遠が、『新千載和歌集』などの勅撰和歌集に歌が選ばれるなど、文武両道の一家。歴代当主も風流人としての側面を輝かせる人物が多かった。 応仁の乱後の不穏な世相の中、美濃に落ちて来た都の公家らとの日常的な交際が、「武門の誇り」をそげ落とすことになったのだろうか、『麒麟がくる』初期の舞台となる天文16年(1547)の段階では、斎藤道三に美濃の実権を奪われた状態にあった。
『麒麟がくる』にも登場する土岐頼芸は、結果的に守護としての土岐家最後の当主となるが、彼もまた風流人であった。彼の描いた鷹の図は「土岐の鷹」と称されて、その画才を今に伝える。
その画才を讃えるか、あるいは、絵にうつつをぬかしているから家が傾いたのだと非難するか――。『麒麟がくる』の舞台は、応仁の乱開戦からすでに約80年。わが国に武士という勢力が勃興して以来、綿々と紡がれてきた一族終焉の背景には、ひとりの当主の力のみでは抗いがたい時の流れがあったに違いない。
土岐宗家は、頼芸の後、頼次、頼泰と続く流れが、江戸幕府旗本として家名を伝えている。頼泰の次男で頼芸のひ孫にあたる頼照は、旗本梶川家の養子に入っている。通称・梶川与惣兵衛。元禄14年(1701)、江戸城松之廊下で発生した浅野内匠頭による吉良上野介への刃傷の際に、居合わせ、内匠頭を押さえつけた人物。忠臣蔵のドラマで「殿中でござる」と叫ぶのがそれである。
『麒麟がくる』に登場する土岐頼芸を見る時に、「諸行無常」「盛者必衰」という『平家物語』で示された物ごとの理(ことわり)と、歴史の大河は頼芸の後も脈々と続いているということに、少しだけでも思いを馳せていただきたい。
文/『サライ』歴史班 一乗谷かおり