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後継者あらそいの行方

曹操には分かっているだけでも25人の男子がいたが、もっとも知られているのは、後継者となった曹丕(そうひ。187~226)と、その座をあらそった曹植(192~232)だろう。ふたりとも卞氏の所生で、曹丕が長子、曹植が第三子である。

曹植は文才にめぐまれた人物で、曹操もその才を愛で、後継者にと考えていた。が、詩人らしく自由奔放な性質だったようで、規律をまもることに無頓着なうえ酒での失態もあったから、跡継ぎは曹丕とさだまる。曹操は魏王のままで世を去り、皇帝になることはなかったが、はやくも亡くなった年のうちに曹丕が漢の帝から位を譲りうけ、魏の文帝となった。

父が没すると、曹植は兄から罪に問われ、命の瀬戸際に立たされる。七歩あるくあいだに詩をつくれば許すといわれ、みごとそれを果たしたという有名なエピソードは逸話集「世説新語」にあるもので、史実とは言いきれない。だが曹植が文才に富んでいたことは事実である。正史の「三国志」には、彼が書いた詩や文章が収録されている。

母の卞氏をはばかって助命されたものの、曹植の後半生は不遇だった。前述の丁儀らブレーンは処刑、たびたびの領地替えを強いられ41歳で没する。兄の曹丕はすでにこの世の人ではなく、甥である明帝・曹叡(そうえい)の時代となっていた。

知られざる息子たち

曹丕と曹植の話はよく知られているが、前述のように、曹操にはまだおおぜいの息子たちがいる。そのなかから、今回はあと二人を紹介しよう。

曹沖(そうちゅう)は妾腹の子だが、聡明なうえ、容姿にもすぐれていた。ある日、曹操の鞍がねずみにかじられてしまい、死罪に処されると怯えた番人から相談をうける。曹沖は羽織にねずみが開けたような穴をつくり、「不吉なことが起こる前兆では」と父のまえで不安げな表情をうかべた。曹操が「ねずみにかじられたくらいで気に病むことはない」となぐさめたところで鞍の件が報告されたため、番人は笑って許されたという。曹沖はこうして罪に問われた者を救ってやることがたびたびあり、その数は数十人におよんだ。将来を嘱望されていたが、208年、赤壁の敗戦(第2回参照)とおなじ年に13歳で亡くなっている。

曹彰(そうしょう)は曹丕や曹植とおなじく卞氏の生んだ子で、第二子にあたる。兄弟のなかでも武勇にすぐれ、猛獣とさえ格闘するほどだった。父に読書を勧められたが、「男子は将として功を挙げることこそ本望」と関心をしめさなかったという。218年、北方の異民族・烏丸(うがん)と矛をまじえた折のこと。深追いを禁じた軍令が出ているにもかかわらず、「必ず勝てる相手を見逃すのは良将にあらず」と無視して追撃、相手をさんざんに打ち破った。曹操は息子のひげをにぎって喜んだと伝えられている。曹彰は兄・曹丕に先立ち世を去った。西暦223年のことである。

それから16年後、甥にあたる明帝・曹叡(前述)が嗣子亡くして没し、養子の曹芳が跡を継ぐ。曹芳の血統は歴史上、明らかにされていないが、ただひとつ正史に記されている説が、曹彰の孫にあたるというものである。

大国・魏のいしずえを築いた曹操。「三国志演義」が劉備や孔明の側から描かれているため、これほど著名な人物でありながら、まだ光のあたっていない部分も多い。妻や息子たちのエピソードは一例だが、今後も彼のさまざまな側面が掘り起こされることだろう。新しい曹操像は、これから築かれてゆくのである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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