文・写真/川井聡
宗谷本線・音威子府(おといねっぷ)駅。かつて宗谷本線と天北線の分岐駅であったが、1989(平成元)年に天北線が廃止になってからは、単なる途中駅となってしまった。
この駅には、いまや『伝説』となったそば屋がある。音威子府駅の立ち食いそば『常盤軒』である。
真っ黒いダシに真っ黒いそば。まるで旨そうに見えない出で立ちだが、ダシの利いたツユと黒いソバが絶妙のマッチングでしみじみ旨い。
店を支えるのは、西野守さん夫妻。ご夫婦で長年に渡りこの味を守ってきた。
日本縦断の汽車旅を終えた後、稚内からの上り列車に乗って、音威子府駅に到着したのはお昼時。すでにご近所の人たちが車を駆け降りてそばを食べにやってきていた。
聞けば猿払から車で来たという。ここから北東へ約100キロ。とてもご近所ではなかったが、「北海道じゃ普通だよ」と笑っている。単純な比較はできないが、昼飯に餃子定食を食べに、東京から宇都宮まで行くような距離である。
彼らの後について、一番豪勢な「天玉そば」520円を注文。真っ黒いツユに、真っ黒いそば、てんぷらと黄色い卵がよく映える。
久しぶりに頂いたが、やはりおいしい。ダシとソバが絶妙に絡み合う。塩辛そうなのは外見だけ、しみじみと味を楽しむ。
ここ音威子府駅は、名寄から延伸してきた宗谷線の駅として開業した。1912(大正元)年のこと。開業当初は南隣の咲来より小さな街だったという。
1922(大正11)年、音威子府から西回りに稚内を目指す今の宗谷本線が一部開通、1926(大正15)年には稚内まで全通する。音威子府駅は重要な駅となっていった。
当時、樺太・サハリンは日本の一部であり、宗谷・天北の両線は稚内・樺太を結ぶルートとして重要な役割を果たしていた。分岐点である音威子府は必然的に交通の要衝となり、多くの鉄道職員が集い車輌の基地となった。
お客さんも一区切りついたところでご主人の西野さんと雑談。お店の歴史にまつわる面白い話をきかせていただいた。
音威子府駅に常盤軒が開業したのは、昭和2年。ここでは列車の乗り換えや機関車の給水などで停車時間に余裕がある。その間の旅行者を相手にした商売である。
ホーム上に構えた店には乗客が列をなした。昭和10年からは弁当も作り始めた。『戦前の宗谷線は樺太へ行く人が鈴なりで、弁当はたいそう売れた』。長距離列車に乗って移動する乗客にとって、駅弁は貴重な食事である。
翌年の昭和11年。西野守さんは常盤軒の3代目として生まれた。最盛期の忙しさの中で育った。
第二次大戦が勃発し樺太へ送られる兵士が増えると仕事はいっそう忙しくなった。
『子供心に、忙しいという記憶しか無いね』
『兵隊さんの臨時列車もあったし、大人はみんな寝ないでやってた。』
使用人も10人くらいいたそうで、レンガ造りのかまどが3つもあったというからかなりの規模である。
当時の北海道ではほとんど獲れなかった米の調達も、兵員の食糧を確保するため便宜を図られた。
『米などの配給が厳しくなっても、軍隊から米が10俵送られてきた。その上に乗って遊んでたよ』という。
弁当は連日、数百の単位で飛ぶように売れた。
東京の大学を出た後、西野さんは音威子府に戻り、駅のホームで弁当売りを1958(昭和33)年から始めたという。
戦後も駅弁は売れ続けていた。昭和40~50年代にかけては「ディスカバージャパン」のキャンペーンもあり、全国に鉄道旅行ブームが訪れた。北海道各地を「カニ族」と呼ばれた若者が旅するようになった。
駅ソバの方も、見た目の強烈なインパクトに比べ落ち着いた香り高い味わいに口コミで人気が高まっていった。そんな折、NHKがこのソバを取り上げ知名度は一気に全国区となった。旅行シーズンともなると、一日に500杯ほども売れた。
昭和40年代、音威子府から稚内まで、当時最速の急行列車でも2時間以上。天北線回りの普通列車だと4時間以上かかる列車もあった。その間、駅弁を販売している駅はない。肩から下げた売り箱に持ちきれないほど積み上げた弁当は、列車が着くたび次々売れた。
『弁当は重くて、きつい仕事だったよ』
何十という駅弁を山のように積んで売り歩くのは、若い守さんにとっても重労働だったという。
しかし、旅行のスタイルが変化するにつれ乗客は減少。1989(平成元)年には天北線が廃止となってしまう。窓の開かない特急列車では駅弁も売れなくなっていた。
「これで店をたたもうかと思っていた」という西野さんだったが、「店を守れ」という父親の言葉に営業を続けることを決意。翌年音威子府駅が改築したのを機に、ホーム上から現在の駅待合室に移転した。
この伝統の味を食べようと音威子府を訪れる人は、全国から絶えない。この日も関西からのお客さんが一人。道内旅行の目的地の一つだという。
「今は一日50(杯)も売れれば良い方だ」と西野さんは言う。「それ以上は頼まれたって体がついて行かないよ」
一通りの歴史を聞き終わったころ、西野さんが少し声を落として教えてくれた。
「ほんとはタマゴ入れちゃダメなんだよ、味が変わっちゃうから」とのこと。
「ありゃ!」と思うがもう遅い、天玉そばはすでに注文も製造も摂取も終え、腹の中に入っている。
改めて話を伺ってみると、西野さんの味に対する姿勢がうかがえた。
常盤件のそばメニューは、かけ、天ぷら、月見、天玉の4種類。でも一番のおすすめは「天ぷらそば」470円。ツユの具合をこれに合わせてるから、卵を入れると味が薄くなってしまう、逆に何も入れないと辛くなってしまう。
そういわれ、改めて天ぷらそばを注文してみる。たしかにシッカリ出汁のきいたツユと、そばの兼ね合いは絶品だ。
朝10時から営業を始め、売り切れたらそれで終了。でも、あまりに早いときには奥さんに追加のツユを運んでもらうこともあるという。運ぶだけでも重労働だ。
以前はそんなとき娘さんが手伝いに来てくれてたけど、子供が大きくなってさすがに手伝いも来られない。
「カミさんも自分ももう年だし、いつまで続けられるか」とおっしゃる西野さん。旅行者のわがままな願いでしかないが、少しでも長く味わわせていただきたい、北の駅の名物である。
文・写真/川井聡
昭和34年、大阪府生まれ。鉄道カメラマン。鉄道はただ「撮る」ものではなく「乗って撮る」ものであると、人との出会いや旅をテーマにした作品を発表している。著書に『汽車旅』シリーズ(昭文社など)ほか多数。
【実録「青春18きっぷ」で行ける日本縦断列車旅】
「青春18きっぷ」だけを使って行ける日本縦断の大旅行を企てた、58歳の鉄道カメラマン川井聡さん。南九州の枕崎駅から、北海道の最北端・稚内駅まで、列車を乗り継いで行く日本縦断3233.6kmの9泊10日の旅。
※ 1日目《枕崎駅~熊本駅》
※ 2日目《熊本駅~宮島口駅》
※ 3日目《宮島口駅~名古屋駅》
※ 4日目《名古屋駅〜戸狩野沢駅》
※ 5日目《戸狩野沢温泉駅~只見駅》
※ 6日目《只見駅~鶴岡駅》
※ 7日目《鶴岡駅~ウェスパ椿山駅》
※8日目《ウェスパ椿山駅~函館駅》
※9日目《函館駅~旭川駅》
※10日目《旭川駅~稚内駅》