文/堀口茉純(PHP新書『江戸はスゴイ』より転載・再構成)
明暦三年(1657)に起きた「明暦の大火」で消失するまで、江戸城には天守がありました。それも、全高は60メートルほどもある、日本最大級の大天守でした。
江戸幕府は明暦の大火のあと、すぐに江戸城の復興に着手しました。天守ももちろん再建する計画で、土台の普請を加賀藩主・前田綱紀に命じたのです。
前田家は領内から5000人の人夫を動員して、これに着手。御家の威信をかけて瀬戸内から巨大な御影石を運ばせて天守の土台を完成させたました。これが、今も東御苑に残る天守台です。
あとは、上に天守閣を築くのみだったのですが、これに待ったをかけたのが会津藩主・保科正之でした。保科正之は三代将軍・徳川家光の異母弟にあたる人物で、家光の死後、四代将軍となった甥っ子・家綱の後見人として、幕政において強い発言権を持っていました。
明暦の大火のとき、将軍・家綱はまだ数え十七歳の少年であり、復興の陣頭指揮を執ることは到底無理。実際に采配を振るったのは、保科正之だったのです。その保科正之が「天守はもはや無用の長物」という衝撃的な主張を打ち出したのです。
そもそも、天守とは何か。端的に表現するならば、大きな櫓です。主な用途は、戦になったときの物見や武器庫、籠城の際の拠点として使うための建造物で、日常的な使い道はこれといってありません。
ただ、巨大な天守を持っているということは、巨大な軍事力・権力の証であり、徳川家に反感を持つ大名たちを牽制するためにも、家康、秀忠、家光の三代は天守を上げ続ける必要があったのです。
しかし四代・家綱の代になって内乱状態は沈静化し、大名統治のシステムも盤石になりました。つまり、再び戦が起こる心配のない、真の天下泰平の世がやってきていたのです。
そんな時代に、天守を上げて、軍事力や権力の誇示をすることが果たして必要でしょうか? しかも、江戸城下が未曾有の災害で壊滅しかかっている非常事態に……。
保科正之をはじめ、当時の幕閣たちがだした答えは「NO」でした。特に実用性のない天守に莫大な建設費や維持管理費を割くぐらいだったら、城下の復興・再建にあてようという英断を下したのです。
これは、徳川幕府による全国の統治の方針が、当初の軍事力にものをいわせた「武断政治」から、戦の心配がなくなったために、法や制度の充実によって社会秩序を安定させようという「文治政治」に移行したことを表わすものでした。
家康が初めて江戸城に天守を上げてから明暦の大火まで、ちょうど五〇年。江戸は、真に平和な時代を迎えようとしていたことの証ともいえます。
以降、江戸城に天守が再建されることはありませんでした。当時の人々にとっては、天守のない江戸城こそ、平和を実感する誇らしい風景だったのかもしれませんね。
文/堀口茉純
東京都足立区生まれ。明治大学在学中に文学座付属演劇研究所で演技の勉強を始め、卒業後、女優として舞台やテレビドラマに多数出演。一方、2008年に江戸文化歴史検定一級を最年少で取得すると、「江戸に詳しすぎるタレント=お江戸ル」として注目を集め、執筆、イベント、講演活動にも精力的に取り組む。著書に『TOKUGAWA15』(草思社)、『UKIYOE17』(中経出版)、『EDO-100』(小学館)、『新選組グラフィティ1834‐1868』(実業之日本社)がある。
※この記事は下記書籍より、著者の了解のもと編集部にて転載・再構成しました。
【参考図書】
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『江戸はスゴイ』世界一幸せな人びとの浮世ぐらし
(堀口茉純・著、本体880円+税、PHP新書)
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