江戸に参勤してきた大名が幕府に課せられた二つの義務
江戸に参勤してきた大名が幕府に対して果たさなければならなかった義務とは、年始、五節句など江戸城で執り行なわれる儀式に参列するため登城すること。そして月3回ほどの定例日(「月次」)に登城して将軍に拝謁することの二つであった。
だが、一口に登城といっても、当の大名や藩士たちにとっては実に大変なことだった。
最後の広島藩主浅野長勲の証言によれば、上屋敷を出るのは拝謁時刻2時間前の午前8時であった。浅野家の上屋敷は現在の霞が関にあり、江戸城とは目と鼻の先といってよいが、なぜ2時間も前に屋敷を出たのか。
この日、登城するのは浅野家だけではなく、江戸在府中の大名すべてが、行列を組んで江戸城大手門に向かったからだ。200近くもの大名行列が、一斉に城へと進んだ格好だった。
浅野家の登城行列の人数は、80人ほどである。浅野家は40万石を超える大名で、行列の人数は多い方だが、数十人単位の登城行列が200もあれば、総人数は1万人にも達しただろう。登城日の朝、江戸城周辺は大名の登城行列で大混雑していたことは間違いない。
80人近くの縦隊といっても、実際は行列を三つぐらいに分け、間隔を置いて城へと向かったため、その長さはおよそ200〜300メートルにも達した。各登城行列の長さも、混雑を増す要因になったのは言うまでもない。
その上、自分よりも格上の大名の登城行列にぶつかると、道を譲らなければならなかった。仮に徳川御三家の行列に出会ってしまうと、敬意を表して駕籠から降りて挨拶することになっており、その分到着も遅れる。
実際のところは、格上の大名と出会いそうになると道を変えて出くわさないようにしているが、到着が遅れることに変わりはなかった。
【拝謁の時刻に遅刻すると、幕府の懲罰が! 次ページに続きます】