文/柿川鮎子

江戸時代は猫や金魚、鈴虫など、さまざまなペットが人気でしたが、政治や社会・文化に影響を与えたのが犬と鷹でした。徳川家康は大の鷹好きで、八代将軍吉宗も鷹好きが嵩じて鷹将軍とまで呼ばれました。江戸時代はどの将軍も盛んに鷹狩りを行っていたような印象ですが、将軍の位に就いてから、鷹狩りを全く行わなかった将軍が4人います。五代将軍綱吉、六代将軍家宣、七代将軍家継、そして最後の将軍の慶喜です。徳川15代将軍のうち4人が、鷹狩りをしなかった将軍でした。

■江戸は犬の時代と鷹の時代に分かれる

五代将軍綱吉は犬公方と呼ばれ、犬好きで有名です。生類憐みの令により、大規模な犬の飼育場を建設しました。手厚い保護の結果、犬が自由に闊歩するようになり、当時、視察に来たドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは「江戸の町はあちこち野良犬だらけで、フンがいっぱい落ちている」と「日本誌」の中に書き残しました。

大阪の浮世絵師曉鐘成(あかつきかねなり)は犬狗養畜傳(けんくようちくでん)とい う日本初の犬の飼育書を発刊して大人気に。(国立国会図書館蔵)

将軍職に就いてからは全く鷹狩りをしていない綱吉ですが、少年時代、将軍家綱から「巣鷹」という鷹の幼鳥を譲り受けています。また、館林城下の鷹場を下賜されて、そこで鷹狩りを行っていました。恩賜狩場と名付けられた場所で鷹狩りをした後、獲れた野鳥を将軍に献上した、という記録も残されています。

綱吉はなぜ、鷹狩りを止めてしまったのでしょう。子供時代に楽しんでやった趣味やスポーツは、大人になっても何らかの形で続けているもの。周りの環境が許すのにやらないのは、
1)無理やりやらされていて、実は嫌いだった。
2)子供の頃は好きだったけれど、ある時、何かのきっかけで嫌いになってしまった。
この2つが考えられます。綱吉が鷹狩りを止めた本当の理由は本人にしかわかりませんが、生類憐みの令を発布した時期と、我が子を亡くした時期が重なっていて、殺生を嫌ったのではないかという説が有力です。

■犬公方綱吉により犬の時代が勃興

四代将軍家綱の死後、綱吉が将軍職に就いてすぐ、「喪に服す」という理由で、鷹狩りを中止します。空気を読む日本人気質は鷹狩りにも及んで、仙台藩では毎年行ってきた鷹狩りを中止。それを知った会津藩も藩内での鷹狩りを取りやめます。

多くの大名は、将軍の喪が明けたら鷹狩りを再び行うと予想していたようですが、綱吉は着々と縮小に向けて動き出します。天和2(1682)年以降、綱吉は鷹に関する役職を大幅に削減。鷹役人を格下げする命令を出し、これまで老中が行ってきた鷹に関する役職を、格下の若年寄が担当するように命じました。当時の様子を記録した「常憲(じょうけん)院殿御実紀」では手鷹師やハイタカ頭などの鷹役人が多数異動したほか、鷹狩りで鶴を狩った鷹師頭を罰した記録が残されています。

鷹に代わって重用されたのが犬でした。犬は手厚く保護され、虐待や殺傷は固く禁じられました。そうした動きに反発した江戸市民により、犬が磔にされる事件も勃発してしまいます。殺傷事件を抑えるために、貞享4(1687)年、犬支配役の喜多見重政により、犬小屋が建設されました。

中野区役所前に設置されたオブジェ「かこい」。付近で犬を囲って飼育したため、お囲い御用屋敷と呼ばれた。撫でて行く人が多いため、耳の部分だけ変色。

綱吉による犬時代の到来は、六代将軍家宣、七代将軍家継に受け継がれました。二人とも、将軍職にいた間、鷹狩りを行った確かな記録が残されていません。同時に、鷹役人の不遇時代は続きますが、その後、八代将軍吉宗で一気に盛り返します。鷹将軍の登場です。

■鷹将軍吉宗による鷹の時代の再来

綱吉の死の1年後、吉宗はすでに鷹狩りを行っていた記録が残っています。吉宗の鷹狩りに対する気持ちは「大御所様上意之趣(おおごしょさまじょういのおもむき)」の中に「予が鷹野・猪狩をするも一分之たのしみにするなどと思ふことも可有(あるべく)なれ共(ども)、左様之事にあらず、治世に乱をわすれずのための鷹野・猪狩なり」と記されています。武士が戦を忘れないように、訓練のために鷹狩りを行うのだ、というわけです。

軍事訓練としても有効な鷹狩り。江戸時代落書類聚という落書きを集めた資料には「上の お好きなもの御鷹野と下の難儀」と書かれた。(将軍家駒場鷹狩図、国立国会図書館蔵)

組織も改革して、綱吉が格下げした鷹役人を格上げします。「御場御用掛(懸)」という要職は、鷹関連の仕事を一括担当させた上、鷹狩りの時は必ず随行するように定められていました。将軍の側近であり、ご意見番としても、重要な役割りを果たすようになりました。

鷹そのものの呼称についても、きちんと統一させました。鷹狩りに使うオオタカ、ハイタカ、ツミ、ハヤブサを総称して「御鷹(おたか)」と呼ぶように命じたのです。野生のオオタカには御をつけませんが、将軍が鷹狩りに使うオオタカは御鷹です。鷹狩りの鷹そのものに権威をつけて、広く周知させました。

■鷹に込められた将軍家の思惑

幕府に反対する浪人対策として、鷹狩りをする土地を「御狩場」や「御留場」「御拳(おこぶし)場」と名付けて管理しました。また、鷹狩りに行く時は派手に行列をつくって、人々に将軍家の権威を見せつけました。鷹を上手に利用して、権力を誇示し、武家社会の統率力を高めたのです。吉宗の行った享保の改革は、鷹なくしては成しえなかったと言えるでしょう。

吉宗が鷹将軍と呼ばれたのは、それまでの将軍が犬の保護ばかりだったから。もしくは、犬からの反動としての鷹将軍なのかと思われがちです。しかし、吉宗が行った鷹狩りに関する多くの改革を見る限り、鷹狩りを積極的に利用することで、徳川家の権威を新たにし、政治や組織の変革を目指していました。

八代将軍吉宗により、再び鷹の時代が到来し、犬には不遇の時代が訪れました。悲劇は続き、享保17(1732)年、犬にとって恐ろしい病、狂犬病が長崎から日本に上陸します。狂犬病は罹患すると死亡率は100%で、現在も治療薬はありません。上陸直後、九州・四国地方では犬が一気に姿を消してしまうほど、数を減らしました。

吉宗の死後も、将軍家の鷹狩りに関する記録は続きますが、次第に数を減らし、最後の将軍となる徳川慶喜は鷹狩りを行わずに、大政奉還となりました。こうして徳川家の将軍を犬派と鷹派に分類すると、数の上では鷹派の圧勝です。しかし、鷹狩りでも犬を使って獲物を茂みから追わせているので、鷹時代も犬は必要不可欠な存在でした。江戸時代、犬と鷹、どちらが偉かったか? というと、同じぐらい、というのがその答えとなりそうです。江戸時代の犬と鷹について、興味がある人には「犬と鷹の江戸時代」(吉川弘文館刊、根崎光男著)に詳しく紹介されているのでぜひご参照ください。ちなみに著者の根崎先生は猫派だそうです。

文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。

写真/木村圭司

 

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