守護でも守護代でもない、守護代家三奉行の一家でしかなかった織田弾正忠家発展の礎を築いた織田信秀。戦いに明け暮れた生涯を終えた時、嫡男信長はまだ10代。尾張の国中に敵がいる状況だった。後に天下人になる織田信長は、まず足元の尾張統一に着手しなければならなかった。
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父信秀死去後の離反者と今川軍の侵攻
信秀の時代には、今川領との境に位置する鳴海城(名古屋市緑区)を守っていた山口教継が信秀の死去後に今川方に寝返り、近傍の沓掛城(愛知県豊明市)・大高城(名古屋市緑区)も今川方に帰した。信長は天文23年(1554)、今川方の村木城(愛知県東浦町)を攻略する一方、調略を用いて今川義元に山口教継を駿河で誘殺させた。
尾張統一の契機と「守護殺害事件」
尾張下四郡では守護・斯波氏,清須城では守護代・織田信友(彦五郎)も力を失い、守護代家宰の坂井大膳が実権を掌握していた。天文21年(1552)、坂井は反信長の旗を掲げ挙兵するが、叔父・信光の支援を受けた信長は勝利を得る。翌年、守護代織田信友と坂井が守護・斯波義統を殺逆するが、義統の子岩龍丸(義銀)は信長の許に身を寄せる。
下四郡守護代・大和守家との戦い
天文23年(1554)、斯波岩龍丸(義銀)を保護した信長は清須城に対して攻勢に出る。信長は叔父・信光と下四郡の分割統治を条件に清須城乗っ取り計画を仕組み、清須城を占拠し、ついで守護代織田信友を自害させる。信長と尾張下四郡を分割統治するはずだった叔父・信光は半年後に家臣に暗殺され、信長は尾張下四郡を掌握することになる。
家老に擁立された弟・信勝を粛正
品行方正で家臣の人望もあった信長の弟信勝は、兄信長を見限った筆頭家老林秀貞・柴田勝家らに擁立され、家督を窺うようになった。弘治2年(1556)信長と戦い、稲生(いのう/名古屋市西区)で敗北。母(土田御前)を頼って助命されるが、尾張上四郡守護代・織田信安と共謀して再度謀反。弘治3年(1557)、兄信長に招かれた清須城で殺害された。
内紛に乗じて上四郡守護代・大和守家を打倒
尾張上四郡を支配するもう一人の守護代織田信安(岩倉織田家)。永禄元年(1558)、岩倉織田家に信安と長男信賢との間で内紛が発生し、信安は追放された。これを契機に信長は出陣し、浮野(名古屋市西区)で信賢軍を破る。翌年、岩倉城(愛知県岩倉市)を攻略。美濃の斎藤義龍と組んだ織田信賢に勝利する。
信長の尾張統一に抵抗した従兄弟・信清
『麒麟がくる』第2話で立小便の最中に斎藤軍の矢で討ち死にした織田信康(信秀の弟)。討たれた直後に高橋克典演じる信秀が「のぶやすー」と叫ぶ姿が印象的だった。実は、信長の尾張統一の最後に立ちはだかったのは、信康の嫡男で信長とは従兄弟にあたる犬山城主(愛知県犬山市)の織田信清だ。岩倉城の織田信賢と戦った際には信長の配下にあったが、その後離反。永禄8年(1565)に犬山城が落城するまで信長に抗い続けた。
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父・信秀が亡くなって信長が尾張を統一するまでにかかった年月は約14年。信長の天下統一への道程は、苦難の連続だった。尾張を統一した信長は、ここから本格的に美濃攻略に着手することになる。『麒麟がくる』でどのように描かれるのか、期待したい。
※『信長全史』(小学館)の〈信長の尾張統一戦線〉の記事をベースに再構成したものです。
構成/一乗谷かおり