老中引退、静かに迎えた最期
定信のあまりにも厳しすぎる政策に、人々の不満が高まっていた頃、日本の周りに外国船が度々出没するようになっていました。経世論家の林子平(はやし・しへい)は、著書『海国兵談』にて海防の必要性を説きましたが、幕政に口出しするものとして、発禁処分にされてしまいます。
発禁処分にしたものの、定信自身も海防を強化する必要があると痛感していました。そして、江戸湾付近を自ら視察し、防備に着手したのです。鎖国体制を続けつつも、外国の脅威から国を守るために奮闘した定信。しかし、寛政5年(1793)、政策の途中で老中を罷免されてしまいます。
民衆の不満が高まっていたことのほかに、朝廷や成人した11代将軍・家斉(いえなり)との関係悪化などが理由として考えられています。老中引退後、築地の浴恩園(よくおんえん、定信が築いた庭園)にて、晩年を過ごします。
文政12年(1829)、72年の生涯に静かに幕を閉じました。
まとめ
幕政を立て直すため、様々な政策を行った松平定信。老中を辞職した後も、国の行く末を案じていたそうです。田沼意次とは真逆の厳しい政策で人々から非難された定信ですが、国と民衆のことを誰よりも考えていた人物だったと言えるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)