写真はイメージです

「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。では親孝行とは何だろうか。一般的に旅行や食事に連れて行くことなどだと言われているが、本当に親はそれを求めているのだろうか。

ここでは家族の問題を取材し続けるライター沢木文が、子供を持つ60〜70代にインタビューし、親子関係と、親孝行について紹介していく。

生涯忘れないチョコレートの味

都内で飲食店を営む芳恵さん(77歳)は、「子供は3人産んだけれど、いちばんバカだった次男坊が、今では親孝行なのかもね」という。

芳恵さんは東京の西部で生まれ育った。

「終戦2年目生まれです。ものがない時代でしたが、うちはまだ少しマシみたいでした」

というのも、終戦直後から8年間ほど、両親は駅前で一杯飲み屋を営んでいたからだ。

「多分、あれは闇市のようなものだったのかもしれません。幼い頃、覚えているのは父と若い男の人が、リヤカーで、どこかに行く。すると、ドラム缶に入った、何かよくわからない臭いがするものが持ち込まれ、それを母と女の子が切って煮る。あれは、今思うと動物の内蔵だったんじゃないかな、って」

芳恵さんが生まれ育ったエリアには、米軍の施設があった。おそらく、そこから仕入れていたのだろう。両親はこの飲み屋で財を成し、芳恵さんが5歳の頃に、23区内に引っ越す。

芳恵さん一家が引っ越した1952(昭和27)年は、砂糖と麦の統制が解除された年だ。戦中・戦後、物資不足で、マッチ、砂糖、米、小麦粉などの生活必需品は、配給制が取られていた。戦後はそれが段階的に廃止されていく。さらに、この時期から、東京都内の常設露店は禁止される。これは、いわゆる「闇市」が姿を消すことを意味していた。

「父は時代を読む目がありました。肋膜(ろくまく)を患っている上に、色覚異常もあり、徴兵されなかったことへの思いもあったようです。商売に対するものすごい執念があり、今後を見据えて英語も学んでいたみたいです。多くを語らない人でしたが、23区内に引っ越してから、父は仕事でよくグアムやハワイに行っていました。今でも覚えているのは、ハーシーのキスチョコ。1か月ぶりに帰ってきた父が銀色の紙を剥き、“芳恵、口を開けろ”というのでアーンとしたら、びっくりするほど甘いものが口の中に入ってきたんです」

芳恵さんは「歯ぐきに吸い付くようなねっとりとした甘さだった」と振り返る。当時、統制が解除されたとはいえ、砂糖は貴重品だった。代用品が使われることもあったという。

「あの強烈な甘さは、今でも覚えています。あれから70年ほど生き、美味しいものをたくさん食べてきましたが、心の底から美味しいと思った経験は、あのときだけです」

父の仕事は順調だった。それには母の支えもあった。

「母は家を守り、父を立てていましたね。23区内に引っ越してからは、駅前に土地を買って店を始めたんです。最初は、お酒だけを出していましたが、そのうちカレーや弁当も売るようになりました。家にはいつも人がいて、賑わっていたことを覚えています」

芳恵さんは、両親から強く勧められ、高校卒業後に栄養学校に進学し、栄養士の資格を持つ。卒業後は弁当工場に就職したが、3歳年上の商社勤務の夫と出会い、21歳で結婚する。

「工場のおばさんたちからいじめられ、仕事が嫌でたまらなかったんです。そこに、主人がひょいと来て私をもらってくれた。渡りに船で結婚し、22歳で長男、25歳で長女、30歳で次男を産みました。夫は世界中を飛び回っていたから、私はずっと実家に住んでいたんです。長男は夫のことを“たまにくるおじさんだと思っていた”と言っていました」

【夫が病に倒れ、夫婦で店を始める…次のページに続きます】

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