はじめに-「長徳の変」とはどんな事件だったのか
「長徳の変」とは、関白・藤原道隆(みちたか)の死去に伴い、藤原道長が内覧・右大臣へと昇格した直後に起きた政変です。道長は、中関白家といわれた道隆の一族を排斥。権力を掌握して、栄華の極みへと駆け上ることとなりました。
目次
はじめに―「長徳の変」とはどんな事件だったのか
「長徳の変」はなぜ起こったのか
関わった人物
この事件の内容と結果
「長徳の変」その後
まとめ
「長徳の変」はなぜ起こったのか
長徳の変が勃発したのは、長徳2年(996)1月です。その伏線となったのは、前年から続く藤原道長と藤原伊周(これちか)の権力争いでした。
長徳元年(995)4月10日、関白・藤原道隆が没し、その跡を継いだ弟・道兼もわずか7日で没すると、道隆の嫡男・伊周と、道隆と道兼の弟・道長の間に政争が起こります。一条天皇の母・藤原詮子(あきこ/せんし)は、伊周の能力や人望の薄さなどを鑑みて道長側につき、同年5月、道長は内覧宣旨を受けました。続く6月には右大臣となって、内大臣だった伊周の官位を上回ります。ちなみに内覧とは、天皇に奏上する公文書を事前に読むことのきる役職で、関白に準ずる地位でした。
中関白家といわれた、道隆の直系筋である伊周と弟の隆家(たかいえ)としては、面白いはずがありません。道長と伊周の対立は深まり、二人の激烈な口論や、道長と隆家の従者同士の衝突・殺傷沙汰が続いたそうです。このような不穏な空気の中、先の天皇だった花山法皇が、伊周・隆家らに襲撃される事件が発生。道長はこれが好機! とばかり二人の排斥に乗り出します。この一連の出来事が「長徳の変」で、花山院闘乱事件ともいわれます。
関わった人物
「長徳の変」は権力闘争が絡んでいるだけに、その人間関係は複雑です。ここでは、事件に直接的に関わった主な人物について整理しておきましょう。
藤原道長
長徳元年(995)、内覧・右大臣に昇進し、官位で兄・道隆の子である伊周を上回り、藤原氏長者となって実権を握る。「長徳の変」で伊周を排斥。
藤原伊周
藤原道隆の嫡男。父の強力な後押しがあり、21歳で内大臣に昇進する。「長徳の変」により左遷され、失脚。
藤原隆家
伊周の弟。16歳で権中納言の位につく。伊周に相談され、花山法皇襲撃を実行し、「長徳の変」の引き金をひくことになる。
花山法皇
藤原為家の四の君のもとへ通っていたとき、伊周の恋敵と勘違いされ、襲撃の憂き目にあう。
藤原定子
一条天皇の中宮。伊周の妹で隆家の姉。左遷を言い渡された2人を屋敷にかくまう。
藤原詮子
一条天皇の母であり、道長の姉、伊周の叔母。2人の権力争いでは、信頼していた道長を支持する。
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