はじめに-徳川家斉とはどんな人物だったのか?
徳川家斉(いえなり)は、江戸幕府の11代将軍です。50年にわたる長期政権を築き、歴代将軍の中で最も長く将軍の地位に就いていたことでも知られています。白河藩出身の松平定信(まつだいら・さだのぶ)を老中首座として、「寛政の改革」を敢行させた家斉。財政を立て直すべく、倹約を重んじるようになりました。
しかし、定信引退後はそれまでの厳しい倹約政治から一転、贅沢三昧な生活を送るようになります。幕府の財政を崩壊させた愚将と称されることが多いですが、実際の徳川家斉はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHKドラマ10『大奥 Season2』では、素直ながらも気弱な一面を持つ江戸幕府11代将軍(演:中村蒼)として描かれます。
目次
はじめに-徳川家斉とはどんな人物だったのか?
徳川家斉が生きた時代
徳川家斉の足跡と主な出来事
まとめ
徳川家斉が生きた時代
徳川家斉は、安永2年(1773)に生まれます。家斉が生まれた頃は、幕府の側用人・老中を務めた田沼意次(おきつぐ)が、実権を握っていた時期にあたります。当初、御三卿の一つである田安家に生まれた松平定信が、次期将軍候補として知られていました。
しかし、意次の政治を非難したことで田沼派からの不興を買い、定信は白河藩へ養子に出されてしまいます。定信のほかに、次期将軍にふさわしい人物がいなかったということもあり、家斉が11代将軍に就任することとなったのです。
徳川家斉の足跡と主な出来事
徳川家斉は、安永2年(1773)に生まれ、天保12年(1841)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
11代将軍に就任、松平定信を老中首座に任命する
徳川家斉は、安永2年(1773)、御三卿の一橋治斉(ひとつばし・はるさだ)の子として生まれます。御三卿は、御三家と同様、将軍の跡継ぎを輩出することを目的として作られました。そのため、御三卿の一つである一橋家出身の家斉には、将軍になる資格があったと言えます。
しかし、当初は頭脳明晰だった松平定信が、次期将軍に就任する予定でした。もし、定信が田沼派に目をつけられていなければ、家斉が将軍になることはなかったかもしれません。天明元年(1781)、家斉は10代将軍・家治(いえはる)の養子になります。
家治が亡くなったことで、天明7年(1787)家斉はわずか15歳にして11代将軍に就任することとなったのです。将軍に就任した家斉は、それまで老中として活躍していた田沼意次を罷免し、松平定信を老中首座に任命します。
田沼時代で緩み切った幕政を引き締めるべく、定信に倹約を重んじる「寛政の改革」を敢行させました。商業の発展を目指した意次の政治とは異なり、農業の発展による幕政の安定化を図ろうとした定信。彼の政策は、傾きかけていた幕府の財政を立て直すことに、ある程度成功したと言えるでしょう。
しかし、あまりにも厳しすぎる定信の政治に、幕府内外からの不満の声が次第に目立つようになっていきました。
定信退陣、豪華絢爛の「大御所時代」到来
定信の政治が非難されるようになった頃、朝廷や将軍・家斉との関係性も悪化することとなりました。これにより、定信は老中を引退し、代わって田沼派の側用人が台頭したのです。家斉自身、定信による徹底した倹約政治を窮屈に感じていたとされます。
そのため、定信引退後は、それまでの倹約政治から一転して、幕府の財政を顧みない贅沢三昧な生活を送るようになったのだと言えるでしょう。幕政よりも贅沢を優先した、家斉。側室を多数抱え、55人もの子どもが生まれることとなりました。
側室や子どもたちの生活費用だけでなく、毎日のように入り浸っていたとされる大奥にも莫大な出費が嵩み、幕府の財政は見る見るうちに傾いていくことに。さらに、田沼時代と同じく、賄賂や縁故による人事が横行し、民衆は腐敗した幕府に対する不満を募らせることとなったのです。
【「天保の大飢饉」発生、幕府への不満が最高潮に。次ページに続きます】