「寛政の改革」を行う
定信が行った政策は、そのほとんどが田沼時代に推進された重商主義への反動であると言えます。商業の発展を重視した意次の政治により、華やかな江戸文化が花開きましたが、一方で賄賂や縁故による人事も横行していました。
定信は、田沼時代に行われた政策を一掃し、緊縮財政と風紀の取り締まりによって、幕政を安定させようとしたのです。「寛政の改革」で行われた政策として、「七分積金」が挙げられます。幕府の財政難により、江戸市中の災害対策に十分な支出が出来ていなかったことを問題視したのです。江戸の町費を節約させ、そのうちの7割を積み立てさせることで、現在で言うところのインフラ整備を行い、災害に備えようとしました。さらに、江戸市中の治安の向上も目指した定信は、人足寄場(にんそくよせば)という、犯罪者などの自立支援を行う収容施設も設置します。
また、江戸市中に大量の農民が押し寄せたことによる、農村部の荒廃も社会問題となっていました。そこで、定信は「旧里帰農奨励令」などの法令を出し、農民を農村部に帰郷させようとしたのです。幕政と人々の暮らしの安定化を第一に考えた結果でした。しかし、前老中・意次とは真逆の理由で、人々は不満を募らせていくこととなります。
厳しい政治に高まる不満
定信は、意次の政治がうまくいかなかったのは、町人文化の繁栄による風紀の乱れが原因であると考えていました。風紀を正すために、洒落本(江戸で流行した小説の一種)や黄表紙(田沼時代に流行した小説の一種)などを発禁処分にします。また、武芸と学問を奨励し、朱子学を正学とする「寛政異学の禁」を出して、蘭学者を公職追放することに。
さらに、大奥や朝廷にかかる経費の節約を図り、華やかな田沼時代を謳歌した江戸市中の人々に対しても、贅沢を厳しく取り締まったそうです。当時流行した狂歌の中に、「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)というて夜も寝られず」というものがあります。
定信の政策はある程度功を奏しましたが、娯楽や自由を奪われた人々の不満はかなり高まっていたことが分かります。
【老中引退、静かに迎えた最期。次ページに続きます】