はじめに-松平定信とはどんな人物だったのか?

松平定信(まつだいら・さだのぶ)は江戸時代後期を代表する政治家であり、寛政の改革を断行した老中として知られています。8代将軍徳川吉宗の孫で、父は田安徳川家という名家の出身です。

農村の復興や幕府の財政建て直しに尽力し、多くの政策を推進しました。しかし、厳格な政策が批判を招き、短期間で改革は終了。その後も文人として活躍し、江戸時代の文化や学問にも大きな影響を与えたといいます。

そんな松平定信ですが、実際にはどのような人物だったのでしょう。史実をベースに紐解きます。

2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、聡明かつ生真面目な性格を持つ人物(田安賢丸/演:寺田心)として描かれます。

松平定信
松平定信

目次
はじめに―松平定信とはどんな人物だったのか?
松平定信が生きた時代
松平定信の足跡と主な出来事
2023年NHKドラマ10『大奥 Season2』で描かれた、松平定信
2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で描かれる、田沼意次
まとめ

松平定信が生きた時代

松平定信が生きた18世紀から19世紀初頭の江戸時代後期は、田沼意次の重商主義政策が破綻し、天明の飢饉などの天災が続発した時期でした。農村では年貢収入の減少が深刻で、百姓一揆や都市部での打ち壊しが多発。

幕府財政も悪化し、社会全体が動揺する中で、定信は改革を求められました。

松平定信の足跡と主な出来事

松平定信は、宝暦8年(1758)に生まれ、文政12年(1829)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

早熟の才を示した、幼少期

松平定信は宝暦8年(1758)12月27日、江戸で生まれました。田安宗武 (たやす・むねたけ) の七男で、8代将軍吉宗 (よしむね) の孫にあたります。

幼名は賢丸(まさまる)といい、幼少期から学問に励み、12歳で修身書『自教鑑(じきょうかがみ)』を著すなど早熟の才を示しました。

いずれは田安家を継いで将軍になるだろうといわれていたそうです。家柄も、将軍としての素質も兼ね備えていた定信。しかし、将軍になることはなく、安永3年(1774)奥州白河藩主・松平定邦(さだくに)のもとへ、養子に出されることに。当時の老中・田沼意次の政治を「賄賂政治」と批判し、田沼派から不興を買ったためであるといわれています。

白河藩主に

天明3年(1783)、養父・定邦の後を継いで白河11万石の藩主になりました。藩主になってから間もなくして、「浅間山の大噴火」が起こり、それが引き金となって「天明の大飢饉」が発生してしまいます。火山灰が空を覆いつくしたことで不作の年が続き、多くの人々が亡くなりました。

定信が治めていた白河領内の人々の生活も、困窮を極めていたそうです。これを受けて定信は、自ら倹約を重んじ、食糧の緊急輸送や備荒貯蓄(びこうちょちく、凶作や飢饉に備えた貯蓄物)の増加など、藩政と人々の暮らしの安定のために尽力しました。

定信が行った政策は見事に功を奏し、白河領内からは一人も餓死者が出なかったといわれています。このことがきっかけとなって、定信の名声は諸大名の間で広がっていったのです。

異常な米価高騰により、両国橋から隅田川に身を投げる人が後を絶たなかったとされる。
『江戸八景 両国橋の夕照』著者:渓斎英泉、出版者:山本、
(国立国会図書館デジタルコレクション) https://dl.ndl.go.jp/pid/1309958 をトリミングして作成

老中首座に就任。次ページに続きます

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