はじめに-松平定信とはどんな人物だったのか?
松平定信(まつだいら・さだのぶ)は、江戸時代後期の大名です。8代将軍・徳川吉宗の孫であり、「寛政の改革」と呼ばれる幕政改革を行った人物として知られています。
天明3年(1783)の「浅間山の大噴火」が引き金となって発生した「天明の大飢饉」。当時、白河藩主を務めていた定信は、藩政の立て直しや領民の救済を率先して行い、領内から餓死者を一人も出さなかったとされます。田沼意次(おきつぐ)の失脚後、緩みきった幕政を立て直すために奮闘した定信。倹約家というイメージの強い松平定信ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHKドラマ10『大奥 Season2』では、政敵・田沼意次に対抗心を燃やし、次期将軍の座を狙う野心家(演:安達祐実)として描かれます。
目次
はじめに―松平定信とはどんな人物だったのか?
松平定信が生きた時代
松平定信の足跡と主な出来事
まとめ
松平定信が生きた時代
松平定信は、宝暦8年(1759)に生まれます。父は、田安徳川家の祖・田安宗武(むねたけ)です。宗武は吉宗の次男であるため、定信は彼の孫にあたります。幼い頃から頭脳明晰で、将軍候補として名が挙がっていました。
しかし、奥州白河藩に養子に出されたことで、白河藩主を務めることとなったのです。
松平定信の足跡と主な出来事
松平定信は、宝暦8年(1759)に生まれ、文政12年(1829)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
奥州白河藩主となる
松平定信は、宝暦8年(1759)、吉宗の次男であり、田安徳川家の祖・田安宗武の子として生まれました。定信は幼少期から聡明で、いずれは田安家を継いで将軍になるだろうと言われていたそうです。家柄も、将軍としての素質も兼ね備えていた定信。しかし、将軍になることはなく、奥州白河藩主・松平定邦(さだくに)のもとへ、養子に出されることに。当時の老中・田沼意次の政治を「賄賂政治」と批判し、田沼派から不興を買ったためであると言われています。
天明3年(1783)、養父・定邦の後を継いで白河11万石の藩主になりました。藩主になってから間もなくして、「浅間山の大噴火」が起こり、それが引き金となって「天明の大飢饉」が発生してしまいます。火山灰が空を覆いつくしたことで不作の年が続き、多くの人々が亡くなりました。
定信が治めていた白河領内の人々の生活も、困窮を極めていたそうです。これを受けて定信は、自ら倹約を重んじ、食糧の緊急輸送や備荒貯蓄(びこうちょちく、凶作や飢饉に備えた貯蓄物)の増加など、藩政と人々の暮らしの安定化に尽力しました。
定信が行った政策は見事に功を奏し、白河領内からは一人も餓死者が出なかったと言われています。このことがきっかけとなって、彼の名声は諸大名の間で広がっていったのです。
老中首座となる
「天明の大飢饉」含む数々の災害に苦しめられた人々は、当時の老中・田沼意次への不満を募らせます。一方、藩政立て直しと領民救済を成功させた定信は、たちまちに注目の的となりました。そして、天明7年(1787)6月、代替わりするかのように、定信は老中首座に抜擢されたのです。
翌年3月には、将軍補佐の大役も任せられた定信。人々の期待が高まる中、幕府財政の再建を目指して、「寛政の改革」に着手することとなったのです。
【「寛政の改革」を行う。次ページに続きます】