はじめに-一橋治済とはどんな人物だったのか?

一橋治済(ひとつばし・はるさだ)は、8代将軍・徳川吉宗の孫です。自身は将軍にはなりませんでしたが、息子の家斉は11代将軍となりました。田沼意次に代わって、松平定信を擁立するのに功を成した人物として、知られています。

では、実際の一橋治済とは、どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHKドラマ10『大奥 Season2』では、一見優しそうですが、実は冷淡で非道な権力の亡者(演:仲間由紀恵)として描かれます。

徳川治済肖像(個人蔵)
「紫綾地雲立涌文袷裘袋(あやじくもたてわくもんあわせきゅうたい)」を着用する、治済。紫の裘袋は通常、高位の僧侶しか着用が許されなかった。しかし、特別に天皇から着用の勅許を得て、着ていたのである。

目次
はじめに-一橋治済とはどんな人物だったのか?
一橋治済の生きた時代
一橋治済の足跡と主な出来事
まとめ

一橋治済の生きた時代

一橋治済が生まれた宝暦元年(1751)は、9代将軍・徳川家重(いえしげ)治世の時代。家重は紀州家の出身でした。8代将軍・吉宗による「享保の改革」の余光もあり、幕府財政は安定していた時代だと言えます。

しかし、その後、時代は大きなうねりを見せていくことに。そのうねりの一角となるのが、一橋治済です。

一橋治済の足跡と主な出来事

一橋治済の生年は宝暦元年(1751)、没年は文政10年(1827)です。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

8代将軍徳川吉宗の孫として誕生

宝暦元年(1751)11月6日、治済は一橋宗尹(むねただ)の4男として、誕生します。一橋家は、親藩御三卿の一つ。治済は、8代将軍・吉宗の孫でもあります。

明和元年(1764)になると家督を継ぎ、一橋家2代目当主となります。

長男・家斉が11代将軍に

天明元年(1781)、治済の長男である家斉(いえなり)が、10代将軍・徳川家治(いえはる)の養子となります。当初、家治は、俊才の誉れ高い田安家の定信(さだのぶ)を希望したそうです。しかし、田沼意次が定信を白河松平家へと養子に出し、家治の養子には家斉を選びました。この背景には、田沼意次が権勢を維持するための意図があったと言われています。

そののち、天明6年(1786)に、家治が死去。それに伴い、翌年には治済の長男である家斉が11代将軍となりました。この時、家斉はわずか15歳でした。

徳川家斉像(徳川記念財団蔵)

田沼意次を排除、治済が松平定信を老中首座に推挙

家治は、水腫のため療養していました。その際、田沼が連れてきた町医者の調合薬を飲んだ後に、急死しています。そのことが反田沼派に利用され、田沼は老中罷免。家斉は自身の後見として白河藩の松平定信を任命します。定信もまた、治済と同じく吉宗の孫でした。

これらの背景には、治済による暗躍があったと言われています。

治済の大御所計画は頓挫、しかし贅を極める。次ページに続きます

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