29歳で結婚。相手がシングルファーザーだったこともあり、両親の説得には1年を要した
父親は躾に意見することはなかったそうですが、食事には父親に関するある決まり事があったと言います。
「父親とは食べるものが違ったんですよ。一緒の食卓には別々の食べ物が並んでいました。例えていうなら、父親は鯛で、子供たちは海老みたいな感じでしょうか。父親のほうが豪華なものが用意されていたんです。でも、それが当たり前だったから、私も妹も特に疑問を持つこともなくて。父親にはいいものをあげなくてはいけないんだって思っていました。だから、同じ魚料理で、魚の頭の部分と尻尾の部分で分けられていたものがあったんですが、食べやすい尻尾の部分が父親の分だって自然に認識して。お皿を運ぶ時にいいほうを父親の前に置くようになっていました。強要された記憶も残っていないので、今振り返ると不思議なんですけどね」
常に少しだけ父親の存在を気遣うものだと思っていたみゆきさん。それは親戚づきあいでも顕著だったとか。
「母親は実家も大阪だったので、母方の親族は近くに住んでいました。だから九州にいる父方の親族よりも交流があったんです。父親の父、私にとっての祖父は父親が小さい時に病気で亡くなっていて、そこまで賑やかに交流することもなくて。それに私は近所に住む母方の祖父母の家に行くのが大好きでしたし、祖父母や従妹とはよくみんなで出かけていました。でも、父親は参加しないことが多くて。それについて誰かが文句を言うこともなく、いなくても自然という感じだったんです。自分が結婚した今だからこそわかるんですが、多少気を遣うところでも普通は参加しますよね。そういうところが認められていた関係って、やっぱり少し不思議ですよね」
勉強ができたみゆきさんは高校、大学へと進学し、大阪の企業に就職。転職でカナダにある会社に勤めて英語を勉強したことが、今の仕事を目指すきっかけになったそう。そして、そのカナダの会社にて、ある男性と出会います。
「彼は10歳上の男性で、出会った時私はまだ20代半ば。そして彼とは私が29歳の時に結婚することになるんですが、最初両親は彼との結婚を大反対しました。それは彼がシングルファーザーだったから。彼はガンで奧さんを亡くしていて、私が出会った時には小学校3年生の娘がいました。両親はともに『苦労するに決まっている』と、最初の頃は聞く耳を持ってくれない状態でしたね」
それでも説得を続けること約1年。根気負けした両親から了承をもらい、彼と結婚することに。結婚する前に、両親、妹との家族4人で旅行に出かけることになったそう。
「家族旅行も大きくなるにつれてなくなっていたし、親族の集まりには父親は参加しないしで、家族全員で出かけることは本当に久しぶりでした。『結婚したらこんな機会もなくなるから』と母親が提案してくれたんですよ。でもその旅行でも認めてくれたはずなのに父親は『孫をどう呼べばいいのか』と、これからのことについて不安を口にしていたのをよく覚えています」
連れ子の母親になろうと努力し続けるみゆきさんでしたが、現実は思っていたよりも冷酷なもので……。【~その2~に続きます。】
取材・文/ふじのあやこ
情報誌・スポーツ誌の出版社2社を経て、フリーのライター・編集者・ウェブデザイナーとなる。趣味はスポーツ観戦で、野球、アイスホッケー観戦などで全国を行脚している。