■選択は正解。5歳若返った母
それからバタバタと準備は進み、1か月後には弘子さんはサ高住の住人となった。宮崎の実家はそのままにしている。
「もしも母と合わなかったときのことを考えて……とは母に言えませんが。でも、そんなことがないとも限らないでしょう。もうしばらくは様子を見て、家の処分は兄とおいおい考えようと思っています。墓をどうするかも考えないといけませんし」
大きな壁となった言葉についてはクリアできたのだろうか? 同郷の方がいて、弘子さんは喜んだでしょう、と言うと船田さんは半ば苦笑しながら否定した。
「話を聞かせてくれた同郷の方が母に挨拶をしに来てくださったんですが、母はうれしそうなそぶりも見せず『私は宮崎といっても、市内ですから』と話の腰を折ってしまい、すっかり気まずい雰囲気になりました。こんなところで変な見栄を張っても仕方ないのにと、少々腹立たしかったのですが、後から考えると、母も新しい環境に緊張していたんだと思います。しばらくは誰とも打ち解けようとせず、食事以外は自室にこもることが多く、また失敗したかもしれないとずいぶん気をもみました」
94歳にして住み慣れた地元を離れ、慣れない生活……。入居して3か月ほどは弘子さんの表情も硬かったという。
それが、3か月を過ぎると見違えるようになった。
「90歳を超えているんですから、新しい環境にすぐなじめるわけがなかったんですね。慣れるのに時間はかかりましたが、サ高住での生活リズムもできてきました。周囲の人を見渡す余裕も出てきたようで、少しずつ友人もできています。すると、入居当初は杖をついてゆっくりしか歩けなかったのが、手すりにつかまりながらですが杖なしで歩けるようになり、今では食堂までスタスタ歩いているんです。部屋がコンパクトなので、動きやすいと喜んでいます。簡単な掃除も自分でやっているし、洗濯機が無料なのが気に入ったようで洗濯も毎日自分でしています」
ちなみに、サ高住では洗濯機に使用料がかかることも珍しくない。確かに毎回有料となると、そうまでして自分でやろうという気は失せるかもしれない。どこで本人のやる気が起きるかは、本当に人それぞれなのだ。
弘子さんの場合、このサ高住を選んだのは正解だった。「5歳は若返ったと感じています」と、船田さんは目を細める。
船田さんが危惧したように、“介護の手厚い”介護付有料老人ホームだったら弘子さんもこれほど元気にはならなかったかもしれない。過去の苦い経験があったからこそ、今があるのだ。
船田さん兄弟は、毎週末弘子さんに会いに行く。そして、これまでの37年間を埋めるように、濃密な親子の時間を過ごしている。
取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。