母子の間にいた大きな祖父の存在。その存在が大学入学後すぐになくなってしまった
母子家庭というと、どこか貧しいイメージを抱いてしまうところがありますが、加奈子さんの家は違いました。
「祖父は私が物心ついた頃にはすでに働いていなかったんですが、蓄えがあったみたいで、不自由はしていません。母親もフルタイムで家の近くの会社で事務の仕事をしていましたし。みんなと同じように、ランドセルはもちろん、裁縫箱や絵の具セット、習字道具も新品で揃えてもらえました。周りには兄妹のいる子がいて、上のお古を使っている子たちを見て、優越感に浸っていましたね。父親がいないことでいじめられることはなかったけど、気を遣われて、深層心理でかわいそうな子だと思われていると感じていたから。その分どこかで勝ってやりたかったんですよ。今振り返ると、その劣等感が、今の負けず嫌いの性格を作ったんじゃないかなって思いますね(苦笑)」
父親がいない理由を聞いた前後で、母親との関係にあまり変化はなかったそう。しかし、それには理由がありました。
「父親のことを聞く前から近い距離じゃなかったんです。さっき話したように母親のルーズさが嫌いだった。片親の場合って関係がもっと密になると思われがちだけど、元々の性格が合わなければそうはならない。私の家の場合は祖父がいたから、まだ大きなケンカなどには発展しなかっただけです。私も母も祖父には恩があるから、いい子を演じていました。だって、今でこそそこまで周りも気にしないけど、昔の未婚の母という存在は、世間からの風当たりが強かったと思います。その母親と父親が誰かもわからない子の私を祖父はしっかりと受け入れてくれたんです。祖父は祖母を私の生まれるだいぶ前に亡くしてから、口数がより少なくなったものの、基本は穏やかな人でした」
そんな母子の関係性が崩れたのが、2人の間にいた祖父の死でした。当時加奈子さんは大学へ進学したばかり。その時母親とある約束をしたと言います。
「祖父は腎不全で、透析をしていたから、なんとなく覚悟していた部分はありました。でも、思っていたよりもだいぶ早くて、本当に急で……。祖父は仕事をずっと前にやめていたこともあり、葬儀は小さい近所の集会所を借りて行いました。祖父がいなくなってしまって、悲しい思いの他に、大学をやめなければいけないと不安もあって。大学進学を勧めてくれたのも、お金を出してくれたのも祖父でしたから。
でも、その考えをお見通しだったのか、母親は『大学はちゃんと卒業すること。それができれば自由に生きていいから』と私に言いました」
別々に暮らすことを決めた後、15年近く母親とは連絡を取り合わず。そんな時に母親の勤める会社から連絡が入り……。【~その2~に続きます。】
取材・文/ふじのあやこ
情報誌・スポーツ誌の出版社2社を経て、フリーのライター・編集者・ウェブデザイナーとなる。趣味はスポーツ観戦で、野球、アイスホッケー観戦などで全国を行脚している。