取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
老舗の伝統技術と革新の精神で、“織り”の可能性に挑む帯匠10代目。その情熱は、根菜中心の朝食と韓国茶が支えている。
【山口源兵衛さんの定番・朝めし自慢】
京都・室町三条。林立するビルの間に、敷地600坪という町家が残る。約280年の歴史を誇る帯匠、『誉田屋源兵衛(こんだやげんべい)』の本社である。その10代目当主、山口源兵衛さんが語る。
「私が帯屋を継いだ昭和50年代は、呉服業界に勢いがあった。通りにはトラックが停まり、店から大量の振袖の帯が積み込まれる。それが日常の風景やった。誉田屋にも150人ほどの従業員がいて、帯を大量販売していました」
父は大店の旦那よろしく、仕事は社員に任せっきりで道楽三昧。そんな父の商いと訣別し、暖簾を守る覚悟を決める。それは問屋ではなく、モノづくりをする帯匠としての出発でもあった。27歳の時である。その覚悟に拍車をかけたのは、母の“女に損をさせるような帯は作るな”という一言だった。
「7年前に亡くなった母は学者の家から嫁いできて、シェークスピアを原書で読むような人やったけど、誉田屋を守り通しました」
その4年後、悲劇が襲う。父の死だ。残されたのは多額の借金。当時の記憶がないほど、がむしゃらに働いた。15年で負債を清算。そこから“織り”の可能性への挑戦が始まった。
朝の根菜、夜の肉料理
革新の精神で、次々と作品を発表している源兵衛さんは毎秋、大阪岸和田のだんじり祭に参加する。自らを命がけの状況に置きたいとの思いからだが、地元生まれにしかその資格はない。デザイナーの故・小篠綾子さんの力を借りて執拗に交渉し、その思いを遂げた。
「昨年の秋で13年目になったけど若い衆に交じって今でも4日間で100kmは走る。岸和田の人からは“バケモン”ていわれてますわ」
その元気の源は朝食の、“根”がつく根菜と夫人手作りの韓国茶である。根菜に限らず四季の野菜の多くは、友人である前衛舞踏家・田中泯さんの畑で取れたものだ。
「泯さんの野菜は無農薬やから、味が濃くて旨いんですわ」
一方、韓国では緑茶や麦茶の他、梅や生姜、柚子などを使った飲み物もお茶と呼ぶ。山口家で常備されているのは、梅茶や生姜茶だ。前者には疲れをとり胃腸をすっきりさせる、後者には血行を良くするなどの効果があるという。
もうひとつ、夕食に欠かさない肉料理、それも牛肉を料した一品も元気の秘訣である。
帯ならぬ帯に2000年の染織の命を吹き込む
モノづくりを始めた20代後半、源兵衛さんは奈良・正倉院展で一枚の布に出会う。“糞掃衣(ふんぞうえ)”である。糞掃衣とは牛の涎(よだれ)や女性の経血がついた布など、不要になったぼろ裂れを洗い清めてつぎはぎした布のことである。
「人の忌み嫌うものを生かす精神こそ仏道。織物はモノやない、精神なんや。そして帯の原点は魂を結ぶもの、身を守る結界なんです。帯屋と名乗る限りは、そんな精神性を内包した帯を世に問いたい」
それが実現するのは、借金返済が終わった50代から。織物の組織図を作る製紋屋、糸屋、箔屋、織り屋などの職人で“帯団”を組み、1本の帯を作り始める。
こうして生まれたのが、実用とは一線を画す帯である。そのひとつが英国立ヴィクトリア&アルバート博物館の永久収蔵品となっている『跳鯉(ちょうり)』だ。円山応挙や伊藤若冲の絵にも挑んできた。
「織物は下絵が命や。それを名画に求めたんです。織りで名画を超えたい。職人が元気なうちに、2000年の日本の染織の技術を残したい。それが私の任務やと思う」
その挑戦に終わりはない。
取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
※この記事は『サライ』本誌2020年3月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。