◎No.24:夏目漱石の日記帳
文/矢島裕紀彦
宮城県仙台市の東北大学附属図書館漱石文庫に、夏目漱石留学時の2冊の日記--いわゆる「渡航日記」と「滞英日記」が保管されている。
どちらも、留学生・漱石の足跡を知る上での貴重な原資料。とくに、茶色の革表紙の渡航日記の冒頭、出発前の身支度について記したメモ書きに目を引かれた。衣類や手拭い、傘、薬、名刺、剃刀(髪ソリ)など、必需品が列挙されたメモの中ほどに「一 梅ボシ、福神漬」の一行が読めるのである。
慣れない海外生活に際して、誰もが気にかける「味覚」の問題を、のちの文豪もはっきりと意識していた。学生時代は、親友の正岡子規と本郷近辺の西洋料理屋に颯爽と繰り出したりしていた漱石も、2年間の留学となると、つい梅干しを持参したくなったらしい。
英国滞在1年半を経過した明治35年(1902)4月17日には、漱石は鏡子夫人宛書簡でこう訴えた。
「日本に帰りての第一の楽しみは蕎麦を食ひ日本米を食ひ日本服をきて日のあたる縁側に寝ころんで庭でも見る、是が願に候」
母国での素朴な日常が、郷愁とともに輝きを帯び、胸にこみ上げていた。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。