◎No.36:宮澤賢治のチェロ(撮影/高橋昌嗣)

宮澤賢治のチェロ(撮影/高橋昌嗣)

文/矢島裕紀彦

それは、ガラスケースの中に封印されていた。岩手県花巻市にある宮澤賢治記念館の一角。かつて宮澤賢治が奏でたチェロである。

かけそば一杯6銭という時代に、170 円もの大枚をはたいた鈴木バイオリン製。花巻屈指の資産家の家に生まれたからこそできる、豪気な買い物であった。賢治はこれを抱えて大正15年(1926)暮れに上京、新交響楽団所属の大津三郎なる人物のもとで3日間の早朝特訓を受けた。

このころの賢治。勤めていた花巻農学校を辞し、「雨ニモマケズ」の詩世界そのままの理想と情熱を胸に羅須地人協会を設立。農業技術の改良に取り組みながら、音楽や文芸などの芸術的楽しみを農民たちの生活の中に根づかせようと試みていた。

その後チェロの腕前がさほどに向上した形跡はないが、賢治の音楽好きは筋金入り。農学校教師時代は、新譜のクラシックの洋楽レコードを近くの楽器店で片っ端から購入。陸奥(みちのく)の小さな田舎町で余りに多くのレコードが売れるため、某レコード会社がその店に表彰状を贈ったという逸話も伝わる。

童話『銀河鉄道の夜』にも象徴される如く、賢治の想像力はしばしば宇宙にまで広がった。夕暮れの記念館。見学者の潮が退き照明が落ちるころ、沈黙のチェロを包み込むガラスケースにも、束の間、向かい側にパネル展示される星座群が映し出され、夢幻の小宇宙が誕生した。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。

写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。

※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。

 

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