◎No.37:林芙美子の灰皿(撮影/高橋昌嗣)
文/矢島裕紀彦
告別式における川端康成の言葉が、常とは趣を異にしていた。曰く。
「故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが(略)どうかこの際、故人を許してもらいたいと思います」
故人、即ち林芙美子。同性作家に対する彼女の度を越した競争意識が、しばしば露骨な排他的態度となって現れ、周囲に不評を買っていたのである。
家というものを知らぬ放浪育ち。あちこちの出版社に持ち込んで一顧だにされず埋もれていた『放浪記』が世に出た時も、飢える一歩手前であった。それが大ベストセラーとなり、一躍文壇の寵児。長い底辺生活で貪欲に逞しく生き抜く姿勢を体の隅々にまでしみつけた芙美子にとって、競争相手を排斥するくらいは朝飯前であったのか。
昭和14年(1939)、朝日新聞に連載した小説『波濤』の出版記念として芙美子がつくり、配った灰皿(東京・新宿区立新宿歴史博物館所蔵)。のちに人間国宝として陶芸界の頂点に立つ富本憲吉の意匠。きりっとした八角形。中央、花の図柄は品のよい藍色で。
男勝りの競争意識と背中合わせの、芙美子の女らしい気遣いが仄見えて哀切。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。