文/池上信次

ヴォーカリスト、ヘレン・メリルは1929年7月21日生まれ。今月(2024年7月)21日に95歳の誕生日を迎えます。2017年の日本でのサヨナラ・コンサートを最後に演奏活動からは引退していますが、これを機にヘレン・メリルの作品を今一度聴き直してみましょう。

ヘレン・メリルは1960年代に日本に住んでいたこともあってか、現在でも高い人気があります。そして多くのジャズ・ファンが代表作として挙げるのが、『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』でしょう。誰が付けたか「ニューヨークのため息」というキャッチフレーズも有名ですね。そして、その中の極めつきの1曲が「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」。クリフォード・ブラウンの輝かしいトランペットソロの印象も強烈なこの曲は、録音から30年ほど経った1980年代半ばに複数のテレビCMで使われ、さらにシングル盤までリリースされて、ヘレンの魅力を広く一般に知らしめました。


『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』(EmArcy)
演奏:ヘレン・メリル(ヴォーカル)、クリフォード・ブラウン(トランペット)、ジミー・ジョーンズ(ピアノ)、バリー・ガルブレイス(ギター)、ミルト・ヒントン(ベース)、オスカー・ペティフォード(チェロ、ベース)、オジー・ジョンソン(ドラムス)、ボビー・ドナルドソン(ドラムス)、ダニー・バンク(フルート、バリトン・サックス)、クインシー・ジョーンズ(編曲、指揮)
録音:1954年12月22日、24日
アルバムの原題は『Helen Merrill』で、『ウィズ〜』は国内盤のタイトル。テレビCMを機にリリースされた「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」のシングル盤のタイトルは『ユード・ビー・ソー・ナイス』でした。

さて、このほかのメリルの作品はというと……、認知度はぐっと低くなってしまうのではないでしょうか。『ウィズ・クリフォード・ブラウン』はメリル25歳のファースト・アルバム。その後の長いキャリアをみれば、ここはまだ「出発点」にすぎませんでした。

当時のヴォーカル・アルバムの多くは「主役と伴奏者」という編成ですが、ここでは「共演者」としてスター・プレイヤーのクリフォード・ブラウンが全曲で参加しています。さらに、クリフォードのソロをたっぷりとフィーチャーしたアレンジも施しました(ちなみにアレンジャーのクインシー・ジョーンズはまだ駆け出しですが、メリルとは旧知の仲でした)。なにせ新人ですから、ブラウンの大フィーチャーにより主役を食われてしまう可能性もあったわけですが、これらはメリルの強い希望でした。しかし結果はお聴きのとおり、「ヴォーカルだけ」ではない「バンド的」ヴォーカル・アルバムという新しいスタイルが生まれたのでした。この成功を自覚したメリルは、この後、ヴォーカリストとしては独自ともいえる、この「ウィズ」コンセプトをどんどん発展させているのです。『ウィズ・クリフォード・ブラウン』が「有名になりすぎて」しまったために、ほかのアルバムが目立たなくなってしまいましたが、それらからはヘレンの際立った独自性を感じられると思います。おもなアルバムを録音順に紹介していきましょう。

1)『ザ・ニアネス・オブ・ユー』(EmArcy)
「ウィズ・ビル・エヴァンス」です。録音は1958年2月で、エヴァンスをこのセッションに呼んだのはメリル。エヴァンス(ピアノ)はこの3か月あとの5月にマイルス・デイヴィスと初めてのレコーディングを行なっています。メリルには先見の明があったんですね。

2)『ザ・フィーリング・イズ・ミューチュアル』(EmArcy)
こちらは「ウィズ・サド・ジョーンズ・アンド・ジム・ホール」です。録音は1965年。ジョーンズ(コルネット)とホール(ギター)のソロイスト二人がたっぷりとソロをとっています。ヴォーカル・アルバムとしてはめずらしい編成だと思います。アルバム・タイトルは「同じ気持ちで」といった意味なので、「ひとつのバンド」という意識なのでしょう。

3)『ミュージック・メイカーズ』(Owl)
「ウィズ・スティーヴ・レイシー」と「ウィズ・ステファン・グラッペリ」の2つのセッションを収録。1986年録音。「ヴォーカリストとスタンダード・ナンバーで共演」は、レイシー(ソプラノ・サックス)にとっても新しい試みだったはず。

4)『ジャスト・フレンズ』(EmArcy)
「ウィズ・スタン・ゲッツ」。1989年録音。ゲッツ(テナー・サックス)だけでなく、ヨアヒム・キューン(ピアノ)、ジャン・フランソワ・ジェニー・クラーク(ベース)、ダニエル・ユメール(ドラムス)というオールスターの顔合わせです。もちろんメリルは埋もれることなく、大きな存在感を発揮しています。ゲッツの傑作ともいえる1作。

5)『クリア・アウト・オブ・ディス・ワールド』(EmArcy)
「ウィズ・ウェイン・ショーター」。1991年録音。ショーター(ソプラノ・サックス)の参加は2曲ですが、ヘレンのようなタイプのジャズ・ヴォーカリストとショーターの共演録音は、とてもめずらしいものです。

6)『あなたと夜と音楽と』(EmArcy)
「ウィズ・菊地雅章」。1996年録音。菊地(ピアノ)とメリルは昔から共演経験はありましたが、ここではなんと、チャーリー・ヘイデン(ベース)とポール・モチアン(ドラムス)とのトリオで参加しているのです。このトリオでの録音は他にないようなので、その意味でも貴重な記録となりました。

「ウィズ」に選ばれているのは、「前向き」で、しかもヴォーカルとの共演がめずらしいミュージシャンばかりです。どのアルバムでもスタンダード曲が演奏されていますが、どれも新鮮なイメージがあるのは、メリルと共演者のお互いが新鮮な気持ちで向き合っているからでしょう。「手慣れた伴奏者が出しゃばらずにサポート」というのがヴォーカル・アルバムの中心的スタイルとすれば、こういった「スリリングな一期一会セッション」で作品をつくるメリルは、ヴォーカリストとしてはユニークな立ち位置にいるといえるでしょう。最初のアルバムから、ずっとメリルは先鋭的な感覚をもつ音楽家だったのです。『ウィズ・クリフォード・ブラウン』のよさがわかる人ほど、そこに止まらず、のちの作品もぜひ聴いてみてください。『ウィズ・クリフォード・ブラウン』は長いキャリアの最初のほんの一瞬を捉えただけなのですから。
(ヘレン・メリルの生年は、オフィシャルサイトの情報によります)

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』シリーズを刊行。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、『後藤雅洋監修/ゼロから分かる!ジャズ入門』(世界文化社)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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