佐渡 裕(指揮者、音楽監督)

─世界を飛び回りながら、「音楽のあるまちづくり」に挑む─

「音楽を“ジャガイモ”のように身近な存在に。一生かかって取り組むべき僕の宿題です」

新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮をする佐渡裕さん。ブザンソン国際指揮者コンクール(仏)で優勝し、指揮者としてプロデビューしてから、今年で35年目を迎える。(C)堀田力丸

──新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任して、もうすぐ1年です。

「新日本フィルは、小澤征爾さんと山本直純さんというふたりの指揮者の掛け声で、昭和47年に生まれた自主運営のオーケストラです。僕がフルートを習い始めたのは小学6年生の時ですが、その少し前に山本直純さんが司会の『オーケストラがやって来た』(TBS系)が始まりました。ここで演奏していたのが新日本フィル。30分間の濃密なクラシック音楽の番組で、テレビを通してとはいえ、地元(京都)で毎週のようにオーケストラの演奏が聴けて夢のような時間でした。こうした思い入れのある楽団の音楽監督ですから、高揚しましたね。プロの指揮者として初めて国内で指揮をしたのも、新日本フィルなんです」

──新日本フィルは墨田区が本拠地です。

「昭和63年に墨田区(東京)とフランチャイズ契約を結びました。日本では初めてです。以来、地元の『すみだトリフォニーホール』を本拠地に活動しています。コンサートの本番会場でリハーサルもできるのは、新日本フィルの強みのひとつですね」

──街にホールとオーケストラがある。

「世界的にも恵まれた、街の大きな魅力です。しかし、この地に移って40年近くが経ち、次第に魅力が実感されにくくなったのも事実。“すみだ音楽大使”にも就任しましたが、『音楽のあるまちづくり』を目指し、例えば、地元の中学校、高校を訪ね回っています。子どもたちに音楽の楽しさを知ってほしい、音楽に目覚めてほしいとの思いからです。僕の等身大パネルが街中や学校内に立てられることもあり、子どもたちから“佐渡さ~ん”と声をかけられる機会が増えました(笑)」

新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会のリハーサル会場で、楽団員たちに指示する佐渡さん。本拠地の「すみだトリフォニーホール」で、本番さながらに行なう。

──ご自身の音楽体験も関係している?

「僕は小学生の時に京都市交響楽団の定期会員になり、たびたびひとりでチケットを購入して演奏会に出かけました。“クラシック音楽は敷居が高い”とよくいわれますが、この体験には、“大人の敷居”を越える喜びがありました。子どもたちが音楽に触れる機会を増やすことで、クラシック音楽という“大人の世界”への憧れを持ってほしいのです」

──子どもたちとの活動も注目されています。

「平成15年に設立した『スーパーキッズ・オーケストラ』(通称SKO)には特別な思い入れがあります。毎年、小学生から高校生までの演奏家を厳しいオーディションで選抜し、高いレベルの演奏会を続けています。SKOにはのべ100人以上が参加し、その後、世界的コンクールで入賞した子が何人もいて、新日本フィルにも出身者がいます。

子どもたちには技術だけでなく、仲間や人前で演奏することの喜びも知ってほしいのです。9割以上が音楽の道に進みますが、中には東日本大震災の被災地を訪ねたことをきっかけに医療の大切さに触れ、医学の道へ進んだ子もいます。音楽を入口として、子どもたちの世界観を広げることが大切です」

──墨田区に居を構えたと聞きました。

「街の魅力は、住んでみないとわかりませんから。今日もホールまで“徒歩通勤”です。おでん種の美味しい店とか、下町らしい人情味に満ちた店がたくさんあって、歩くたびに新たな発見の連続です」

──兵庫県立芸術文化センターの芸術監督も務めています。

「センターは平成17年の開館ですから、もう20年近くになりますね。西宮という人口50万人近い街にあるのですが、大阪と神戸に挟まれ、当初は“西宮でクラシックをやって人が集まるのか”と不安視されることもありました。でも西宮は阪神甲子園球場や宝塚大劇場も近く、人が行き交う街です。クラシックの魅力を丁寧に発信していけば、きっと人は集まるとの自信がありました。オーケストラやオペラの公演はチケットがすぐに完売するので、うまくいっていると思います」

「自分は音楽が好きなのか、それとも人が好きなのか」

小学6年生でフルートを始め、高校2年生の時、スコットランドで開催されたユースオーケストラの音楽祭に日本代表として参加。世界選抜ユースオーケストラに選ばれた。

──佐渡さんの音楽の始まりは。

「若い頃、声楽を勉強していた母の影響で、2歳の頃からピアノを習いました。嫌々でしたけどね(笑)。でもお陰で耳が良くなった。テレビから歌が流れてくると、それを縦笛で再現できたんです。ある時、そうやって覚えた『タイガーマスク』の主題歌を学校で吹いたら、教室中が沸いて皆が喜んでくれた。今でも自分は音楽が好きなのか、それとも人が好きなのか、わからなくなることがあります」

──どういうことでしょう?

「人が好きというか、人を喜ばせたいという気持ちが根底にあるのでしょう。誰かと音楽の楽しさを共有したいのです。僕が音楽の道を進み続けたのも、魅力的な人による影響が大きい。小学4年生の時、京都市少年合唱団を受験したのは担任の先生の勧めでしたし、6年生の時にフルートを始めたのも、フルートを吹いていた担任に憧れたから。思い返せばこの頃、勝手にオーケストラを作って──もちろん、縦笛やアコーディオンという編成ですけど、参観日に披露していましたね」

──何のパートを担当したのですか。

「指揮者でした。はっきりと指揮者になりたいと意識したのは、大学2年生の頃ですが、この頃から自分が指揮する姿を思い描いていたのかもしれません。家で交響曲を聴く時は、それにあわせて指揮をしていましたし、小学校の卒業文集には、『ベルリン・フィルハーモニーの正指揮者になる』と書いています」

──大学ではフルート科でした。

「途中で転科も考えました。ただ、ひとつの楽器もできずに指揮者なんてできるのか、という疑問もありました。フルート奏者を目指さなかった理由は単純で、あがり性なんです。ソロ演奏だと緊張で汗が止まらなくなる。

指揮者は観客に背を向けているから平気なんです(笑)。でも指揮者になる方法がわからない。それで在学中に、高校の吹奏楽部やママさんコーラスなど、片っ端から指揮の仕事を引き受けました。多い時は10グループほどを掛け持ちして指揮棒を振ったかな。決して演奏レベルが高いわけではなかったけど、一緒に音楽をつくっていく喜びがあった。練習をするにつれ、どんどん音が良くなっていくのもわかった。今は一流の演奏者ばかりのプロのオーケストラを指揮していますが、あの頃感じていた喜びをずっと大事にしています」

──とにかく指揮棒を振り続けた。

「お金もなかったですからね(笑)。カラオケの録音の指揮もしたし、そうそう、NHK連続テレビ小説『都の風』(昭和61~62年放送)の指揮もしました。当時は、ドラマ番組に流す音楽を、秒単位で録音していたんです」

──指揮は独学ですか。

「ある先生に師事した時のことです。そこで教えていたのは指揮棒の振り方でした。腕の振り方が中心の練習に疑問を持ち、ある時、先生の前で“これって意味があるんですか?”と口をついてしまった。即破門です(笑)。

その後もいろんなオーディションに落ち続けましたが、買わなければ宝くじは当たりません。25歳の時、米国のタングルウッド音楽祭に応募しましたが、受かれば小澤征爾さんやレナード・バーンスタインさんの指導を受けられると聞いたからです」

──大胆な挑戦です。

「小学5年生の時にお年玉で初めて買ったレコードが、バーンスタイン指揮の『マーラー交響曲第1番』でした。ふたりの憧れの指揮者に会いたいと、応募書類と一緒に自分が指揮したビデオテープを送りました。それが目に留まったようです。僕はオーディションを勝ち抜き、この音楽祭に参加が叶いました。結果、バーンスタインさんに師事することができ、指揮者人生が急速に動き出しました」

「学んだのはテクニックではない。音楽への向き合い方を吸収した」

──バーンスタインさんとの出会いや関係は。

「音楽祭のあと、レニー(バーンスタイン)に“あなたのもとで勉強したい”と手紙を出しました。レニーにウィーン(オーストリア)に来るように言われ、のべ3年間、同じ時を過ごしました。のちに知ったことですが、彼の初来日は昭和36年。私が生まれた年です。その時のことを紹介した新聞を偶然、手にしたら、日付は5月14日。私が生まれたのはその前日です。こんな偶然ありますか?

しかもその時の副指揮者は小澤征爾さん。不思議な縁を感じずにはいられません。レニーから多くのことを学びましたが、テクニックを教わったわけではありません。僕が吸収したのは、音楽への向き合い方です。彼は楽譜を通して作曲家と会話していました」

──楽譜を通して会話するとは。

「楽譜は、作曲家からの手紙なんです。記号しか記されていませんが、それをどう読み解くか。どんな言葉で楽団員たちに伝えるか。指揮者の仕事は、これに尽きる。当然、楽団員たちも楽譜を読み込んでいるし、他の指揮者と何百回も演奏している。読み込みが浅ければすぐに見透かされます」

文字や記号などのメモ書きがびっしりと書き込まれた佐渡さんの楽譜。この日の楽団員とのリハーサル前にも入念に目を通し、目を閉じてじっと思念する場面も見受けられた。
リハーサルの合間の短い休憩時間のひとこま。楽屋で楽団員らと談笑する場面も。佐渡さんの指揮は体全体を使って大きく動き続けるため、毎回、全身が汗びっしょりになる。

──佐渡さんの指揮の激しさに驚きます。

「動きの激しかったレニーの影響もあるのでしょうが、意識してオーバーにしているわけではないんです。悪魔のような曲調ならそういう形相になるし、ロマンチックな曲なら振りもそうなる。作曲家の手紙を受けて、自然と体が動いていくんです。そして、体全体の動きによって、自分の意図をオーケストラに伝える。

その結果、いい音が奏でられ、しかもそれを3階席の一番奥まで届けなければならない。ただ音量が大きければ届くものでもなく、大事なのは皆の“気”なんです。僕たちが観客に届けているのは、形の見えないもの。“気”なんて口にすると詐欺師みたいですが(笑)」

──今後の活動について考えていることは。

「レニーが亡くなった後に知ったのですが、彼がこんなことを言っていたそうなんです。“ジャガイモのようなやつを見つけた。今は泥がいっぱい付いているけれども、その泥をきれいに取ることができたら、世界中の人たちが毎日食べるような音楽をつくるだろう”と。この言葉を耳にした時は、本当に感慨深かったですね……。

ですが反面、レニーから僕への大きな宿題でもあると受け止めています。墨田や西宮でやっていることもそうですが、音楽の楽しさや喜びをひとりでも多くの人に伝えていくことこそ、僕の使命だと思います」

──音楽のある風景を増やしていく、と。

「ええ、日本でも音楽を“ジャガイモ”のように身近な存在にしないといけませんからね。『題名のない音楽会』(テレビ朝日系)の司会を7年半務めたのもその一環ですし、山本直純さんのあとを継いで、『サントリー1万人の第九』の総監督・指揮を20年以上続けているのも同じ理由からです。体力がどこまで続くかわかりませんが、レニーからの宿題は、一生かかって取り組まなければなりません。きっと体が動く限り、指揮棒を振り続ける人生になるんでしょうね(笑)」

東京・墨田区のリハーサル会場へは歩いて向かう。新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任後は区内にも居を構え、欧州と関西との3拠点生活を続けている。

佐渡 裕(さど・ゆたか)
昭和36年、京都府生まれ。レナード・バーンスタイン(米)、小澤征爾らに師事。平成元年、ブザンソン国際指揮者コンクール(仏)で優勝。パリ管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などでの客演のほか、トーンキュンストラー管弦楽団(オーストリア)音楽監督、兵庫県立芸術文化センター芸術監督などを務める。令和5年4月に新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任。詳細はhttp://yutaka-sado.meetsfan.jp/

※この記事は『サライ』本誌2024年2月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/吉場正和)

 

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