【サライ・インタビュー】

美輪明宏さん
(みわ・あきひろ、歌手、俳優)

――芸能活動68年、名誉都民に選出――

「人には必ず役目がある。舞台を通して皆さんに活力を吸収していただくのが、私の役目です」

美輪明宏

名誉都民の賞状を背に。「男が女を愛し、男が男を愛し、女が女を愛しても、神の目から見れば人間が人間を愛してるだけのことです」

※この記事は『サライ』本誌2019年3月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/御堂義乗)

──昨年、名誉都民に選ばれました。

「最初にご連絡をいただいたとき、いったんはご遠慮したんです。私は社会に反旗を翻し、抗いつづけて生きてきたものですから、いただける筋合いはないと思いますって。でも、“小池都知事はじめ審査の方たちも満場一致で決まりました”と言われ、皆さんのご好意を無にするわけにもいかないのでお受けさせていただきました。これは、社会全体がリベラル(自由主義的)になってきた証拠だと思います。受賞理由も〈ジェンダー(性差)を超えて長年にわたり多方面に活躍して老若男女に支持されてきた〉ということでしたから」

──出身は長崎です。

「丸山遊廓に近い繁華街で生まれ育ち、父はカフェを経営していました。キャバレーとバーの中間くらいの店で、女給さん、今でいうホステスさんが20人近く働いていました。ボーイさんもいて、店の奥にたくさんの雑誌や本が積まれていた。子供ながらに、そういうものを読んで育ったんです。

店の隣は南座という芝居小屋で、小さい頃から自由に出入りしていました。役者衆にも可愛がられ、演出の仕方から大道具、小道具、衣裳、化粧まで、名優たちのいろんなものを側で見られました。そこでは映画も上映され、それこそ世界中の映画を観ました。向かいには楽器屋さん兼レコード屋さんがあって、あらゆる音楽が流れていた。さまざまな芸術的環境が整っていたわけです」

──原爆も体験しました。

「10歳の夏でした。家の2階の縁側で宿題の絵を描いていて、出来ばえを見ようと2〜3歩後ろに下がったとき、白い閃光が走りました。一瞬の静寂のあと、凄まじい地響きがし、窓ガラスが飛び散り瓦が降ってきた。お手伝いさんに手を引かれ外に出ると、阿鼻叫喚の地獄絵図です。これが原爆の熱線によるものと知ったのは、大分、あとのことでした」

──その後、音楽の道を志したきっかけは。

「戦後まもなく、古川ロッパさん主演の『僕の父さん』(昭和21年)という映画を観たんです。そしたら、加賀美一郎さんという子役がボーイソプラノのとても綺麗な声で歌っていた。感動して繰り返し映画館に通い詰め、劇中歌を全部覚えました。それを学校の廊下で歌っていたら先生に見つかり、“あとで教員室にいらっしゃい”と。大目玉を食らう覚悟で行くと、他の先生方の前で歌わせられ、“この子、才能あると思いませんか?”って。その日のうちに先生が父に進言してくださり、バリトン歌手の先生が教える音楽教室で本格的にピアノと声楽を習うことになりました」

──音楽修業の始まりですね。

「中学校に入ると、歌への情熱は一層高まりました。私が進学した海星中学の創立者はフランス人宣教師で、戦時中は敵性語として禁止されていた英語とフランス語が戦後、必修科目として復活。フランス語を基礎から勉強できました。あるとき、家の前の楽器屋さんを覗いたら、フランス語の歌詞が書かれた楽譜がある。お店の人に頼んでレコードも聴かせてもらい、時々耳にしていたその音楽がシャンソンであることを知りました。その日から、独学でシャンソンを歌いだしたのです」

──中学を卒業後の進路は。

「東京の国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)へ入学しました。でも、1年も経たないうちに家が破産して中退。下宿代も払えず、アパートを追い出されました。その頃、新宿駅の地下道や駅の構内には、焼け出された人が大勢寝泊まりしていました。私もそこに潜り込んでいたら、高校の上級生にばったり出会い“君、ジャズ歌えるか?”って。それからは進駐軍のキャンプを回り、ジャズを歌ってお金を稼ぐようになりました。

喫茶店でアルバイトもしました。そしたら、顔見知りになった学生から“今度、早稲田の喫茶店で、宝塚歌劇団出身の橘薫さんがシャンソンのコンサートをやるんで、前座で歌ってくれないか”と頼まれました。ふたつ返事で引き受けて歌うと、橘さんが認めてくれ、今のままじゃもったいないからと銀座の『銀巴里』を紹介してくれたんです」

──伝説的なシャンソン喫茶ですね。

「パリでは、文化人や芸術家の集まるカフェが文化の発信地になりました。そういうことを雑誌で読んで知っていたので、『銀巴里』もそんな店にしたいと思いました。そんな折、先々代の中村勘三郎さんが江戸川乱歩先生を連れて来られました。いろんなお話をすると面白い子だと気に入られ、そのあとすぐ三島由紀夫さんや川端康成先生もお見えになった。岡本太郎さんも常連で、飛び入りで『パリの屋根の下』なんか上手に歌っていました。他にも大勢の文化人の方が来られ、丁々発止、知的な議論を楽しんでおられました」

──パリのサロンのような空気だった。

「私が『銀巴里』で有名になったのは、ひとつは男でも女でもないという、お小姓ファッションです。日本には古くからそういう文化がありました。平安時代のお稚児さんや、元禄時代の色若衆。徳川綱吉の側用人の柳沢吉保は、全国から美少年を集めて歌舞音曲を仕込み、女物の柄の振り袖を着せて諸大名をもてなしました。柳沢十六人衆です。そんな伝統を復活させたわけです。それが〈神武以来の美少年〉などとマスコミで喧伝され、そのうちに、レコードを出さないかという話になって吹き込んだのがシャンソンの『メケ・メケ』です。これが大ヒットしました」

美輪明宏

まばゆいほどの輝きを見せる10代の頃。「神武以来の美少年」という呼称は、パリ帰りの随筆家で芸術家たちのパトロンとしても知られた実業家の薩摩治郎八がつけたという。

「炭塵にまみれて働く人たちを慰め、励ます曲を歌いたいと思って」

美輪明宏

昨年の舞台『美輪明宏の世界〜愛の大売り出し〜2018』(東京芸術劇場)の一場面。歌の主人公になりきって歌い、曲が替わるたびに人格も変えるという。

──一躍、スター歌手となりました。

「全国各地から引っ張りだこで、あちこちに偽者が出現したほどです。そんなあるとき、九州の炭鉱町へ興行に出かけると、手違いがあって会場がおさえられていなかった。急遽、用意されたのは公民館が崩れかかったようなところでした。板張りの上に筵を敷き、老若男女、お客さんがぎっしりと座っていました。炭鉱の不況が始まりかけた頃で、皆さん大変だろうに、お金を払って来てくださった。

舞台から見える皆さんは、爪から皺から炭塵が染み込んで真っ黒けなんです。そんなお客さん方の前で、私はひらひらした格好でシャンソンを歌っている。まあ、申し訳なくて、恥ずかしくて。なんとかこういう人たちを慰め、励ます歌はないだろうか、と思いました。外国には、労働歌とか反戦歌とかいろいろなジャンルがあるのに、日本には歌謡曲ぐらいしかない。じゃあ、自分でつくって、自分で歌おうと思いました」

──シンガー・ソングライターの草分けです。

「炭鉱町の子供たちを題材にした『ボタ山の星』や、反戦歌『ふるさとの空の下に』とか、いろいろつくり、華やかな衣裳も封印して地味な格好で歌い始めました。その途端、潮が引いたように周りからマスコミがいなくなり、世間から見向きもされなくなった。地方のキャバレーで歌っても“酒がまずくなる”と言われ、おつまみが飛んできた。仕事は来なくなるし、それは大変な目に遭いました。その頃、建築現場で重石や槌を滑車で上げ下げして地固めする作業で懸命に働く母と、その息子の親子愛を歌った『ヨイトマケの唄』をつくりました。

昭和40年、NET(現・テレビ朝日)の『木島則夫モーニングショー』で何か歌ってほしいと言われ、『ヨイトマケの唄』のことをお話ししました。じゃあ、それでいこうと歌ったら、ものすごい反響がありました。テレビ局の電話はジャンジャン鳴るし、励ましの手紙がたくさん届いた。それで、また忙しくなり、全国を回りました」

──その後、この歌は放送で規制されます。

「民衆は待ってるんですよ、自分たちの歌を。それなのに、民放の集まりか何かで歌詞にある〈土方〉が不適切だと言うんです。やり合いましたよ。“じゃあね、舞台で働いてる人は裏方さんって言うんです。武士の奥様は御裏方、それから長唄や端唄を歌ってる人たちは地方さんです。それもすべて不適切なんですか”と。どうして土木工事の人たちだけが問題になるのかと。でも、結局はテレビ局の方から他の歌に替えてくれと」

──放送の自粛ですね。

「ちょうどその頃、NHKからも出演依頼がありました。“歌っても、大丈夫ですか”と聞くと、“うちは大丈夫です”と。で、テレビで歌うと、やっぱり大ウケだったんです。実は、昭和40年末の『NHK紅白歌合戦』へ出場の打診がありました。ところが、当時は1曲につき2分半という時間の制約がありました。『ヨイトマケの唄』はフルコーラスで6分以上かかりますし、歌詞は切り刻んでしまったら何にもならない。ですから、お断りしたんです。それから47年が経った平成24年、『NHK紅白歌合戦』に私は初出場すると『ヨイトマケの唄』を歌ったんです」

美輪明宏

エディット・ピアフの『愛の讃歌』に込められた、相手本位で見返りを求めない無償の愛が、舞台の歌唱からあふれ出し客席を包む。

美輪明宏

ファンの求めに応じ自著にサインをする。『紫の履歴書』『人生ノート』などベストセラーとなった著書も多い。近刊に自らの歌と人生を綴った『愛の大売り出し』。

「歳を取ったから死が近づくんじゃない。人はいつでも、死と隣り合わせです」

──劇団『天井桟敷』の舞台にも参加します。

「『天井桟敷』は、ご存じのように寺山修司さんが創設した劇団ですが、私が出演に至るまでの話が、ちょっと遠回しでしてね。彼は、私と同い年の生まれなんですが、悪賢いところがあって(笑)。その頃、九條映子という松竹の女優さんが、『銀巴里』にしょっちゅう来ていたんです。その九條さんが寺山さんと結婚し、何年か経った頃のことです。

お店に九條さんがいらして“ニューヨークにいる寺山から手紙がきた。ちょっと頼まれたんだけど読んでみてくれる?”というので、その手紙に目を通すとこんなことが書いてあった。いま、こっちでは既成の演劇に飽き足らず、アングラ(※前衛的で実験的な演劇や映画などの芸術活動。)という洒脱なものが流行っている。日本にもそんな芝居を定着させたい。ついては『青森県のせむし男』という芝居を書いたので、その主役を美輪さんにやってほしいから、ぜひ口説いてほしい。もし、それがうまくいったら、君が本当に美輪明宏と友達だということを認めてあげる、と。これって、ずる賢くないですか?」(笑)

──なんとも回りくどい出演依頼ですね。

「でも、台本を読ませてもらうと、これが面白い。私の役は大正マツという名の醜い老女。所属事務所からは、せっかく『ヨイトマケの唄』のヒットで世間が認めてくれたのに、と反対されましたが、引き受けたら大当たりです。で、次に寺山さんが私に書いてくれた芝居が『毛皮のマリー』。これも、前作に輪をかけて爆発的なヒットになりました。後の『黒蜥蜴』や『愛の讃歌』などへつながる、私の舞台俳優としての出発点です」

美輪明宏

TBSラジオ『薔薇色の日曜日』(毎週日曜朝7時2分〜7時12分頃に放送)の収録風景。美輪さんが独自の視点で生き方のヒントを語り、高聴取率を続けている。

──健康を保つために心がけていることは。

「人間は何でできてるかというと、肉体と精神ですよね。肉体の健康を維持するための食料は、いま過剰なほどありますし、皆さんも充分に気を遣っている。じゃあ、一方の精神はどうでしょう。これを健康に保つための食料は何かというと文化なんです。美術、文学、音楽、スポーツなどの上質の文化に触れることで精神の健康が養えます。ともすると、このことはないがしろにされている気がします」

──老いや死について思うところは。

「人間はね、何度も死期に近づきながら生きています。普段、そのことを意識していないだけです。大地震に大災害、私たちの世代は戦争や原爆もありました。いつ死ぬかわからない。それを老年になったから死期が近づいたなんて、とんでもない。人間はいつでも、死と隣り合わせで生きているんです。それは子供から大人まで、変わりはない。ところが年配の人だけが死、死と大騒ぎしている。今さらジタバタしても始まりませんよ(笑)。あの世っていうのはね、その人の心の有り様によって住むところになるようですよ。優しく、清らかで美しい魂の人はそういうところに住む。心が暗く、忌まわしくて、真っ黒けの想念の人はそういうところに住む。だから、自分自身で極楽にもできるし、地獄にもなるらしいです」(笑)

──人は生きたように死ぬと。

「この世に生まれた人は、どんな人でも何らかの役目をもって生まれてきています。私の役目は歌や演劇を通して、皆さんに楽しみや活力を吸収していただくこと。これからも、精一杯つとめてまいりたいと思います」

美輪明宏

4月2日〜21日に東京の新国立劇場で『毛皮のマリー』が再演(のち全国公演予定)。頽廃美あふれる、妖しくも哀しい魅惑的な物語(※作/寺山修司、演出・美術・主演/美輪明宏 パルコステージ 電話:03・3477・5858)。

●美輪明宏(みわ・あきひろ)昭和10年、長崎市生まれ。昭和32年、シャンソン『メケ・メケ』が大ヒット。美貌とファッション革命で注目される。『ヨイトマケの唄』ほか多数の歌をつくり、自ら歌う。寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」の旗揚げ公演で俳優デビュー。以来、江戸川乱歩原作・三島由紀夫脚本の『黒蜥蜴』、自ら脚本・演出を手がけエディット・ピアフの生涯を描いた『愛の讃歌』などの舞台に主演。

※この記事は『サライ』本誌2019年3月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/御堂義乗

 

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