さだまさし(シンガーソングライター)
─デビュー50周年を迎えても第一線で活躍し続ける多芸多才の人─
「コンサートもテレビもラジオも執筆も、欲張ってやるほうがうまくいくんです」
──吉田政美さんとのフォーク・デュオ、グレープがデビューして50周年を迎えました。
「グレープのデビューが昭和48年10月ですから、あれからもう半世紀。“俺は50年続けるぞ”なんて意気込んで始めたわけじゃないので、50年という数字に特別な感情はありません。日々を必死に生きているうちに、“あれ? もう50年経ったぞ”というのが、正直な感想です。でもね、ずっと音楽で生きてこられるなんて、こんな贅沢はありません。神様から頂戴した、ありがたい時間です。コンサートに来ていただくお客さんの顔を見るたびに、やってきてよかったな、まだまだやらないといけないな、と思います」
──グレープの“再結成”も話題です。
「結成が昭和47年の11月3日だったので、せっかくだから50年目の同じ日に『一夜限りのグレープ復活コンサート』をやろうというのがきっかけでした。それが昨秋の話で、場所は、『グレープ・ラストコンサート』の会場だった神田共立講堂(東京)。ところが“一夜限り”とうたっているのに開演は午後3時で、夜になる前に終演。ファンやスタッフから、“一夜はまだ終わっていない”との要望もあり、50周年の活動が今も続いています」
──グレープの約47年ぶりとなるアルバム『グレープセンセーション』も発売しました。
「オリジナル曲を中心に、『無縁坂』など3曲をセルフカバーしています。20代の頃に歌いまくった『精霊流し』をね、古稀のふたりがまた歌う。あの頃に比べたら、声も太くなったし、ギターもうまくなり、ごく自然に、音楽に向き合えている。吉田は今の僕たちを“ワインを寝かしたような感じ”だと評します。
ところが、反響が良かったこともあり、スタッフがまた悪乗りして、今度はグレープの公演も何回かやることになった。さらに、50周年なんだから、僕のソロアルバムもいるだろう、ということになり、『グレープセンセーション』の4か月後に、『なつかしい未来』というソロアルバムを出しました。3か月でオリジナル曲を書き下ろせという無茶なスタッフの叱咤激励と、とにかく新曲やコンサートを楽しみに待っていてくれるファンに支えられて、50年も続いているんでしょうね」
──グレープの結成と解散の経緯は。
「結成のきっかけは、高校時代の友人だった吉田がね、僕の故郷の長崎に突然、訪ねてきたんです。当時の僕は体を壊して東京の大学をやめ、故郷で療養していた。吉田はプロのバンド活動をしていたんだけど、嫌になって逃げ出した。どっちもこの先、やることが決まっていない。じゃあ一緒に音楽をやってみようということになった。
その後すぐにヒットに恵まれたんですが、あまりに忙しくなり、僕が根を上げてしまった。休みが月に1日しかなく、テレビ出演が28本、取材20本、コンサート15本というようなスケジュールが続きました。レコード会社に“休ませてくれ”と懇願しても“世間に忘れられる”と許可されず、とうとう体がまた悲鳴をあげた。医者から半年は動くなと言われ、仕方なくグレープを解散して休んだのです」
「真面目が売れず、洒落がヒット。何が売れるか、今もわかりません」
──ソロ・デビューの経緯を教えてください。
「本当はね、地元の長崎放送への入社を画策したんです。小椋佳さんが、銀行マンをしながらシンガーソングライターをやったでしょ? あの方式で、まずは定職に就こうと思った。長崎放送には当時、制作音楽課というのがあって、音楽番組を制作していたんです。そこに履歴書を持っていった」
──解散後に“就活”をしたわけですね。
「どうなったと思います? その場で足元のごみ箱に履歴書を放りこまれた(苦笑)。“君はこんなとこで働いちゃいけない。歌いなさい”ってね。この時の担当者は、一生の恩人です。でも当時は途方に暮れましたよ。それでグレープの元バンドメンバーだった渡辺俊幸に“いっしょにバンドをやらないか”と誘ってみた。そしたら、“また泣きながら解散コンサートやりたいの?”と突き放され、“俺はまさしのプロデューサーとしてがんばりたい”と。要はひとりで歌うしかやりようがなくなった(笑)。渡辺くんは宣言通り、今も僕の曲のプロデュースをしています」
──療養期間を経て、昭和51年11月に『線香花火』でソロ・デビューしました。
「バカでしょ? もうすぐ冬だというのに『線香花火』なんて。夏に曲を作れば、レコーディングは秋、発売は冬。もちろん、売れませんでしたよ。ですが、ありがたいことに、同日に発売した1枚目のソロアルバム『帰去来』が売れた。これは幸せでしたね。今じゃ想像できないかもしれませんが、当時、ファンの多くは中高生だったんで、アルバムの世界観が受け入れられ、手応えを感じました」
──2枚目のシングル『雨やどり』が大ヒットを記録します。
「オリコンチャートで1位になったものの、あの曲は“洒落”みたいなもんですからね。ある時、コンサートで“昨日こんな変な歌作ったんだけど”と披露してみたら、大いにウケたんです。するとコンサート終了後に、ディレクターが楽屋に駆け込んできて、“まさし、これ、シングルだ”って。すぐにライブ録音で出すことにしたんですが、そもそもライブ盤が珍しかった時代。お客さんの笑い声は入っているし、歌詞で“ちょうだいませませ”なんて歌ってるし、まさか売れるとは、ねぇ」
──このヒットがあってソロでもやれると。
「まさか、そんなことは思いません。だってこれ、ふざけた歌なんだもん。グレープの時は、『精霊流し』とか『無縁坂』とか、いわば“線香色”でしょ、ヒット曲は。でも、ソロになったら、洒落で作った曲が売れた。真面目に作った曲がヒットしたわけじゃない。それに『雨やどり』は“軟弱だ”とか“ふざけてる”とか、散々叩かれましたしね。何が売れるかなんて、今もよくわかりません」
──デビューから50年。コロナ禍の昨年も年間50本以上のコンサートを行ないました。
「逆風が強くなっても、歌い続けるという活動は止めたくなかった。コンサートの日になるとね、朝、起きてからトイレで“あー、あー”とまず声を出してみるんです。その声の加減で“今日は相当、発声練習をしないとまずいぞ”と不安になったり、“今日は調子がいいぞ”と胸をなで下ろしたり。そんなストレスと向き合う日々が続いています」
──テレビドラマへの出演も増えました。
「このあいだ吉田が、“まさしは古稀だというのに忙しすぎる。死に急いでいるんじゃないか”と冗談交じりに言っていた。あいつは、グレープが解散したあと、レコード会社でプロデューサー業をするようなしっかり者で、腰を据えてじっくり活動するタイプなんです。でも僕は、コンサートに曲作りに、テレビやラジオに本の執筆に……と、3つも4つも欲張って同時にがんばりたい。ひとつに絞るより、そのほうが何かとうまくいくんです」
「やること、やりたいことが山積み。『日暮れて道遠し』を実感します」
──年齢を重ねてもペースダウンしません。
「今は4人ぐらいの“さだまさし”が同時並行的に働いているようなものです。しかも、誰もが手を抜かずに全力で活動しているから、スケジュールが過密になるのは当然。忙しすぎてグレープを解散したというのにね(笑)」
──元気の秘訣は何かあるのでしょうか。
「大谷翔平選手が大活躍していますが、彼の平均睡眠時間は1日10 時間以上だそうです。二刀流として、投げて打つから、他の選手の2倍以上の体力を使う。体力の回復のためには、しっかり寝るしかないと。僕もね、ひたすら寝ますよ(笑)。大谷選手ほどストイックじゃないから、お酒は飲みますけど、睡眠への意識は負けない。大事なのは質より量です。普段は何とか9時間くらい、しっかり眠るように心がけています。ところが最近、睡眠を邪魔しようとする“5人目”が出てきた」
──5人目の“さだまさし”がいると。
「ゴルファーの僕がね(笑)。大好きなゴルフを月に1回はやらないと、僕の中のひとりが“おい、まさし! 働き過ぎだ、ゴルフ行け!”って怒り出すの。それで、睡眠時間を削って早朝からゴルフに出かけるんだけど、忙しくて集中できないと、プレーが乱れて逆にストレスが溜まる、なんてこともあってね。
でもね、へとへとになりながら、自分が打ったボールを追いかけているうちに、人工の音がないゴルフ場の静寂な世界の中に引き込まれ、だんだん自分が眠気や疲れを超越して、自然な姿でゴルフに打ち込んでいることに気づく。芝生の上を歩いている感触とか、自然の音とか、そういうものを感じながら、“よし、明日からまたがんばろう”となるんだね」
──ここ数年はますます忙しくなっています。
「どんどん自分の時間が削られていますよね。でも、歳を取るとは、そういうことじゃないでしょうか。目的の座標を持っていると、時間が足りないということに気づいてしまう。『日暮れて道遠し』という言葉を噛みしめながら、日々、活動しています」
──さださんに“終活”は無縁ですか。
「人の終わりは平等に、誰にでもやって来ます。今日、お迎えが来るかもしれないし、1年後かもしれない。それは神様にしかわかりません。悩んでも無駄だし、怖がっても意味がない。その時に“しまった、あれをしときゃよかった”と後悔しないためにも、日が暮れる前に3つも4つもいっぺんにやらないと間に合わない。グレープの元相棒から“腰を落ちつけて”と心配されようとも、やること、やりたいことが山積みですから、精一杯、走り続けてみたいんです。今は忙しすぎて、心身の衰えを感じる暇がないだけかもしれませんが、ゴルフの飛距離が出なくなったことには心底がっかりしています(笑)」
さだまさし
昭和27年、長崎県生まれ。3歳よりバイオリンを習う。國學院大學に進学するも体を壊し中退。昭和48年、吉田政美とフォーク・デュオ、グレープとしてデビュー。昭和51年にソロ・シンガーとして活動開始。『雨やどり』『関白宣言』『北の国から』などヒットを飛ばす。平成13年には『精霊流し』で小説家デビュー。多くのベストセラーを生む。新アルバムに『グレープセンセーション』『なつかしい未来』。
※この記事は『サライ』本誌2023年8月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/横田紋子)