【サライ・インタビュー】
角野栄子さん
(かどの・えいこ、児童文学作家)
――国際アンデルセン賞作家賞を受賞――
「読書体験はものすごく大切。心の中に降り積もった言葉が、やがて生きる力になるのです」
※この記事は『サライ』本誌2019年1月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)
──国際アンデルセン賞を受賞しました。
「世界中の人が私の作品を読んでくれたんだな、と思い本当に嬉しかったですね。この賞は児童文学の作家と画家へ2年に一度ある選考で与えられるんですが、ここ2回はアジア圏の作家の受賞が続いていました。地域的な配慮もあるだろうし、候補にあげられてはいましたが今回は受賞できると思わなかった。だから、イタリアのボローニャでの発表の場へ、私は行かなかったんです。審査委員長のパトリシア・アルダナさんが“エイコ・カドノ、エイコ・カドノ”と読み上げても、誰も出てこないから“いないのか?”って(笑)。
その日の夜中に、現地入りしていた編集者から電話があり、まさかの受賞を知りました。地域など関係なく、この賞は作品本意で選考してくれているんだと改めて認識しました。ギリシアのアテネで行なわれた授賞式では、賞状とメダルとともに、“ 角野栄子の物語はいつでも驚きと魅力に満ち、読者に力を与えてくれる”という評価をいただきました」
──物語にふれた原体験は。
「5歳で母を亡くし、不憫に思った父がいろいろな物語を読み聞かせてくれました。絵本の『桃太郎』や『舌切り雀』に始まり、黒岩涙香が翻案したジャン・バルジャンの物語『噫無情』や、新聞に連載されていた吉川英治の『宮本武蔵』、それから自分が若い頃に浅草で見た無声映画の話……。父は深川生まれの江戸っ子で質商を営み、落語や浪曲、歌舞伎などの大衆芸能が大好きでした。聞かせる話にも、歌うような独得の調子の節回しがついていました。でも、父とのそんな楽しい時間は、私が小学校に上がると父が召集されて終わりを迎えました」
──ご自身も疎開されました。
「最初は学童疎開で山形へ、その後は家族で千葉県へ疎開しました。その頃にはひとりで本を読めるようになり、夢中で読みました。子供は、親や大人が面白そうに本を読んでいれば自然と真似をします。子供の頃からの読書体験はものすごく大切です。読書を通して言葉が自分の中に降り積もり、その人というものが存在する。私はそう思います。積み重なった言葉は、やがて人が生きていく上で力になる。落ち葉が腐葉土になり、肥料になるように。自分の言葉や表現で、物事を語ることができるって素敵なことだと思います。
本には、想像力というものもついてまわります。読みながら“この次どうなるんだろうな”とか“自分だったらこうするな”、とか物語の中へ入り込んでいろんなことが想像できる。その想像力はものを作り出す創造につながるし、自由に考えることにもつながる。そうやっていけば周囲を眺めて付和雷同するのではなく、自分で考えられる人間になると思うんです。それって、今の日本に必要ですよ。いつも右を見て左を見て、学校でも人と違うといじめられたりする。そういう人たちばかりだと、国自体が貧弱になってしまう」
──戦後は早稲田大学に学びました。
「中学と高校が女子校だったし、共学で自由な校風の大学に行きたかったんです。教育学部の英語英文学科へ入学し、翻訳家としても有名な龍口直太郎先生の指導を受けました。龍口先生には“君は翻訳よりも書いた方がいい”と言われ、私は英語の出来がよくないという意味に捉えてしまいちょっとがっかりしたんですが、それが今の進路への示唆だったことにずっと後で気が付きました。
大学を卒業すると紀伊國屋書店の出版部に勤務しました。本の装丁の仕事がしたかったんです。とはいえ編集部門に3人、デザイン部門はふたりという小さな部署でしたから、編集の仕事も随分と手伝いました。1年半ほどで結婚し、いわゆる寿退職をしました」
──ほどなくブラジルに渡航します。
「当時は、まだ自由に海外へ行くことが許されない時代で、移民としてなら渡航できたんです。ともかく、海外の文化にふれたいという思いが強くて、インテリア・デザイナーの夫とブラジルへ渡りました。昭和34年、24歳の時です。その頃のブラジルは、ニューヨークの国連ビルを設計したブラジル人の建築家ニーマイヤーが中心となり、ブラジリアという超近代的な新しい首都を建設していた。それを見てみたいという気持ちもありました。
私たちが乗った船は、神戸を出るとまず太平洋を航行し、マラッカ海峡を抜け、インド洋を南下するとアフリカの喜望峰を回って大西洋を渡りました。ブラジルのサントス港に着くまでに、まるまる2か月かかりました」
──随分と思い切った決断です。
「若かったからできたんでしょう(笑)。ブラジルの情報なんてまったくない時代でしたが、不安よりも期待の方が大きかった。父は、もう二度と会えないんじゃないかと心配していましたが」
──ブラジルでの暮らしはどうでしたか。
「サンパウロに暮らし、少しくらいは英語が通じると思っていましたが、ポルトガル語しか通じず、買い物ひとつ満足にできません。部屋に閉じこもりがちとなり、手持ちのお金もなくなってきて“なんでこんな所に来ちゃったんだろう”って。そんなある日、閉め切っていた窓を開けたら気持ちのいい風が顔にあたった。“そうだ、外に出てみよう”。そう思ったんです。のちに『魔女の宅急便』(※昭和60年刊行。魔女の血をひく少女キキが成長していく姿を描く。平成21年刊行の第6作『それぞれの旅立ち』をもって完結。)に書いた、親元を離れて海辺の町に住み始める主人公キキの気持ちの揺れ動きは、この時の私の体験そのもの。気持ちが変わると、町の風景や人の顔も違って見えました」
「娘が12歳の時に描いた一枚の絵から『魔女の宅急便』が生まれました」
──そこから新たな扉が開いていった。
「ある日、外出から帰ってきた時、エレベーターでブラジル人の男の子と出会ったんです。同じ建物に住んでいることがわかり、カタコトの言葉と身振り手振りで“私にポルトガル語を教えてほしい”と頼みました。それが、当時12歳のルイジンニョ少年でした。その日の夕方、彼はスーツを着て薔薇の花を1本持ってやってくると、得意そうに“プロフェソール・ルイジンニョ”と挨拶しました。僕はルイジンニョ先生だよ、というわけです」
──仕事はどうしたのですか。
「私は短波ラジオの放送局で営業を、夫は家具のデザイナーとして働き始めました。2年間、一生懸命に働いて、なんとかヨーロッパを旅行して帰国できるかな、というくらいのお金が貯まりました。それで、料金の安い船を探し、ブラジルを離れてポルトガルのリスボンへ。そこから小さな車でヨーロッパを9000km走り、飛行機でアメリカとカナダを回り、日本に帰り着いたのは昭和36年でした」
──まさに世界一周の旅ですね。
「帰国後は、大学の恩師・龍口先生が主宰する翻訳勉強会に参加しました。娘も生まれ“リオ”と名付けました。そんな中、大阪万博を目前に控えた昭和44年、龍口先生から一本の電話をいただいたのです。世界の子供を紹介するシリーズ本を企画している出版社があるので、そのブラジル篇を書いてみないか、という誘いでした。
作家になるなんて、夢にも思っていません。戸惑いましたが、ともかくやってみようと挑戦することにしました。娘がまだ幼く、目が離せなかったので、画板を首から下げると、洗濯ばさみで紙を留め、子供から目を離さず、一緒に動きながら原稿を書き進めました」
──すんなりと書き上がりましたか。
「編集者の助言を頼りに、何度も書き直しました。そうして出版にこぎつけたのが私の処女作『ルイジンニョ少年』です。何よりも、この本を書いているうちに“自分は書くことが好きなんだ”と心底、思いました。次は面白い物語を書いてみたい。誰に頼まれるでもなく、ただ自分のために書き始めました。子育てをしながら、書き続けました。
7年の月日が経ち、ふたつの物語が出来上がりました。編集者に読んでもらうと、そのうちの一作を本にしましょうと言ってくれ、もうひとつの物語は、創刊されたばかりの児童向け雑誌に投稿すると採用されました。こうして少しずつ、私の作品が世の中に出ていくようになったのです」
──50歳で『魔女の宅急便』を刊行します。
「ヒントになったのは、娘が12歳の時の絵なんです。娘は絵を描くのが好きで、あるとき一枚の絵が机の上に置いてありました。見ると、箒に乗った魔女と黒猫です。箒の柄にはラジカセが吊るされ、そこから音符が流れて、箒の房にはお下げ髪のような三つ編みがあり、リボンが風になびいていました。これを見て、娘のような現代っ子の魔女を書いてみたいと思ったのです。あれこれと構想を練り、発表できる雑誌も見つかり、1年間連載したあとに単行本になりました」
「ひとつのことをコツコツと続けられれば、それがその人の魔法」
──魔女そのものの研究もされたとか。
「『魔女の宅急便』が平成元年に宮崎駿監督の手でアニメ映画化されて大評判になると、いつの間にか私は魔女の専門家みたいに思われてしまいまして。いろいろ質問をされるので、調べ始めました。様々な文献を読み、ルーマニアやドイツへ魔女を辿る旅もしました。
結論から言うと、魔女って、そもそもはお母さんのような存在だったんじゃないかと思うんです。昔は自然環境が厳しくて、子供が生まれても丈夫に育つとは限らなかったでしょ。そんな中で、冬に枯れても春になると芽吹く木の生命力や自然のエネルギーに着目したんでしょうね。それが薬草の採集などにつながっていきました」
──魔女は薬草を暮らしの中に取り入れた。
「体の温まるお茶とかね。薬草のことを知っていたので、医者やお産婆さんの役目もしていたんです。19世紀フランスの歴史学者ミシュレの本には、魔女は千年もの間、医者だった、と書かれています。身の上相談などもされたのでしょう。それが歴史の狭間で悪者扱いされ、排撃される時代がありました。不思議なことができる彼女たちは、人をたぶらかす許し難いものとして恐れられて否定されたのね。権力に利用され、身代わりにされた面もありました。
私はね、魔法って、誰もがもっていると思うの。ひとつのことを見つけてコツコツと続けられれば、それがその人の魔法になるんじゃないかな。好きなことを見つけたら、好奇心と冒険心をもってやってみることです」
──3年前、戦争の物語を書きました。
「『トンネルの森 1945』です。私は終始一貫、平和を願っていますが、頭でっかちな平和論や主義主張は書きたくなかった。終戦を10歳で経験した少女の私の目を通して、その眼差しから離れることなく、肌感覚のものを書いてみたいと思い、筆をとりました」
──健康のために何かしていることは。
「規則的な生活を心がけてます。朝は8時半くらいに起き、朝ご飯を食べて家事をこなし、10時半頃から机に向かいます。午後2時か3時頃まで仕事をしたら軽めの昼食。その後は買い物に行ったり、散歩に出かけたり。7時くらいに夕食を食べ、夜は仕事をせず、読書をしたりテレビを見て過ごします。
これといった運動はしていませんが、なるべく歩くようにしています。平成13年に東京から鎌倉へ引っ越してきたんですが、こちらへ来てしばらくすると車を手放しました。鎌倉は小さな道があみだくじのように入り組んでいて、歩くのが楽しい町なんですよ」
──やがて訪れる死について思うところは。
「父は92歳まで生きましたが、ずっと元気で、倒れたのが死ぬ前日の夜でした。弟のお嫁さんから“お父さんがちょっと具合が悪いって”と電話があり、行くほどではないと思ったけど、気になって夜中に車を飛ばしていったら家に誰もいなかった。びっくりして運ばれた病院に駆けつけたら、もう亡くなっていました。最後の夕食は、大好きな天麩羅そばを食べたそうです。私もそういう死に方をしたいな。実際にはジタバタするんでしょうけど。死ぬタイミングは思い通りにできませんからね。だから、せめて生きてるうちは自分の思い通りに生きたい。なるべくシンプルに暮らす。それが私にとっては幸せなの」(笑)
──83歳、まだまだ書き続けますね。
「好きだから書く。それ以上のことはありません。そして、私の作品は自由に読んでほしい。読書は勉強でなく、強制されるものでもない。私が書いたものでも、読んだ時からその人の物語に変わるのです」
●角野栄子(かどの・えいこ)昭和10年、東京生まれ。早稲田大学教育学部卒。昭和34年、ブラジルに渡航し2年を過ごす。昭和45年、『ルイジンニョ少年 ブラジルをたずねて』でデビュー。昭和60年、代表作『魔女の宅急便』を刊行。他に『ズボン船長さんの話』『大どろぼうブラブラ氏』など著書は250冊余り。平成30年8月、児童文学のノーベル賞といわれる国際アンデルセン賞作家賞を受賞。旭日小綬章受章。
※この記事は『サライ』本誌2019年1月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)