高田純次(タレント、俳優)

─人気テレビ番組『じゅん散歩』の画集を初刊行─

「番組開始前は出歩くのが億劫だったけど今じゃ空を飛べるくらい軽快になったね」

取材当日は『じゅん散歩』(テレビ朝日)の収録で、朝から西葛西(東京都)近辺を巡った。肩からかけているのは、自身がプロデュースした牛革のショルダーバッグ(キタムラ製)。

──『じゅん散歩』の収録時に、沿道からたくさんの人に声を掛けられていました。

「この番組も今年の秋で丸8年。『じゅん散歩』が始まった当時、68歳だったんですけど、初めの頃は“20年先までスケジュールを押さえてあるから”って冗談言いながらやっていました。世間の話題に対して、気の利いたコメントをする“学”もないし、見た目からして“朝の顔”って柄じゃないし、20年なんておこがましいという思いは今もありますけど、気力と体力が続く限りがんばりたい。

『じゅん散歩』に出演する前は、夜の時間帯の出演が多く、全世代的な認知度が高いわけじゃなかったんです。それが今じゃ、街を歩いていると、お年を召した女性からも“純ちゃーん”なんて黄色い声援が飛ぶのがうれしい。普通に返事してもつまんないから、“どこの女子大生?”なんて返しますけどね(笑)」

──番組が始まる前に手術をしたと聞きます。

「67歳の時、椎間板ヘルニアと脊柱管狭窄症の手術を受けました。その時、医者から“リハビリには歩くのが一番いい”と言われたんです。そのタイミングで『じゅん散歩』の話をいただき、“渡りに船”と引き受けました。

正直、番組が始まった頃は収録がきつかったんです、歩きづめですから。けれど撮影で街を歩くたびに、少しずつ体がそれに順応してくれてね。この番組をやる前は、ちょっとした距離でも歩くのが億劫だったんですけど、今では少し背中を押してもらったら、それこそ空を飛んじゃうんじゃないかというくらいにフットワークが軽快になりましたね」

──『じゅん散歩』の視聴率も好調です。

「ありがたい話だよね。若い頃から挫折の連続だったからさ」

──どんな挫折を経験してきたのですか。

「若い頃のことで印象に残っているのは受験の失敗かな。自分でいうのもなんだけど、小・中学生の時は近所でも評判の“勉強ができる純ちゃん”だったの。神童というのは言い過ぎだけど、成績は抜群に良かった。父は大手企業のサラリーマンで、自分もいい大学を出て会社員になり、父のように地道に働くつもりだったんです。ところが、まず高校受験で第一志望に落ちて、高校3年生の時には大学を5つ受けたけど、これまたすべて落ちてしまってね。それから一浪して、今度は美大も狙ってみようかと。絵が得意だったからグラフィックデザイナーに憧れたんです。

ところが10も大学を受けたのに、またまた全部落ちた。なまじ“勉強ができる純ちゃん”なんてチヤホヤされてきたから、ご近所への世間体が悪いのなんのって……。なんで一所懸命に受験勉強しているのに自分だけ受からないんだと、自暴自棄になりましたよ。アイビールックを身に纏い、ブックバンドで十字に結んだ教科書を持って、大学のキャンパスで女の子を口説くのが夢だったのに、それが叶わないという邪な理由もあったけどね(笑)。

同じ高校に浪人の仲間がいて、そいつも受験に失敗したんだけど、知り合いの伝手をたどって、カナダに留学してしまった。結局、高校の同級生で大学に行けなかったのは、僕だけ。それで大学進学は諦めて、東京デザイナー学院のグラフィックデザイナー科に入った。振り返れば、これが今の仕事へと続く人生の分岐点だったんだけど、受験への悔いがあるのか、今もたまに夢を見てます(笑)」

東京デザイナー学院2年生の夏、高田純次さんは日本一周するべく中古バイクで北海道に向かった。写真は当時。ところが、バイクの調子が悪くなり、すぐに取りやめになったという。

──その後、サラリーマンの道に進みます。

「東京デザイナー学院を卒業後、劇団の研修生になったこともあったけど、今の女房と籍を入れたこともあり、宝石の卸会社に入社しました。宝石をデザインすることもあったし、給料もそこそこ良かったけど、3年くらい経った頃、魔が差して辞めてしまった」

──何があったんですか?

「ある時、会社の受付の女の子を口説こうと、新宿の居酒屋に誘ったの。そこで劇団の研究生時代からの知り合いだった柄本(明)やベンガルたちにばったり再会してしまった。当時、彼らは『東京乾電池』という劇団を旗揚げしたばかりの頃でね。実は彼らから“一緒にやらないか”と誘われ、旗揚げ公演も観に行ったんです。でも、これが大コケで(笑)。当時は“サラリーマンになって正解だった”と女房に話していたんだけど、2回目の公演は大成功したという噂が聞こえてきて、そのタイミングで会ってしまった」

──偶然の再会から何かが変わったと。

「向こうは熱く演劇論を交わしているのに、こっちは女の子を張り切って口説いているだけ。それまであまり意識してこなかったけど、急に自分がみすぼらしくなってきてね……。結局、この時から劇団に加わることを悶々と考えるようになっちゃって、最後は彼らの誘いにのるんだけど、こっちには女房も子どももいるし、年齢も30歳を過ぎて、夢を追いかけてばかりもいられない。手元にはマンションの頭金として貯めていた200万円しかないのに、女房に内緒で会社を辞めちゃったから、散々泣かれたことを覚えていますね」

『じゅん散歩』(テレビ朝日、毎週月曜~金曜9時55分~)の収録風景(東京都江戸川区の行船公園)。平成27 年秋に始まり、今年で8年目。放送回数はまもなく2000回となる。

「安定した会社員の道よりも自分が納得した道を選んだ」

──会社を辞めることに不安はなかった?

「結局、安定した道よりも、自分が納得する道を選ぶしかないんでしょうね。地道に生きようとサラリーマンになったのに、仕事に没頭していない自分に気づいてしまった。宝石の世界と芝居の世界を比べ、どっちに自分が燃えるかと考えたら、やっぱり芝居だよなって。宝石の仕事を続けても先が知れていたし、どっちを選んでも簡単に成功できないなら、自分が燃えられる仕事を選ぶべきかなと」

──簡単に成功できる世界ではありません。

「いざ、劇団員になってみると、稼ぎは減りましたが、人生の面白さは増しました。公演ポスターもデザインさせてくれたし、舞台上でもいろんな役がやれた。ただし貯金はすぐに尽きてしまったので、アルバイトに明け暮れる日々です。公演前に1か月くらい稽古をするのですが、それがお昼の12時に始まる。夕方5時、6時までやって、そのあと道路工事の現場でアルバイト。朝の5時まで汗水流したら、家に帰って昼の11時まで寝て、起きたら稽古場へ。こんな繰り返しでした」

──体を壊すことはなかったのですか。

「健康だけが取り柄で、肉体的な無理がきいた。そうじゃなかったら、すぐに潰れていたと思います。死にかけたこともありましたしね……。とある水道管の埋設工事の時、ツルハシで地下5mくらいまで穴を掘り、穴の底で作業をしていたんです。すると突然、頭上の土砂が崩れてきて、生き埋めになった。目の前が真っ暗になり、身動きもできない。必死にもがいて、何とか這い出せたんだけど、さすがに肝を冷やしましたね。それから女房と子どもの顔がチラつくようになって、すぐに危険な仕事からは足を洗いましたけど」

──その後は順風満帆に仕事を?

「いえいえ。テレビで稼げるようになるまでは、大道具の仕事で家族を養いました。テレビのレギュラーが決まったのは33歳だったかな。『笑っていいとも!』の前身の番組に『笑ってる場合ですよ!』という昼の帯番組があって、そこからですね。少しずつ顔が売れて、ドラマに出演したり、CMにも起用されたりして。がむしゃらにやっているうちに、気がつけばデビューから40年以上が経ったという感じです。

僕がやってきたのは見ている人を『裏切る』ことだけ。相手が予想しないことをパッとやってみせる。言葉にする。そうするとね、たいてい笑いが生まれるんです。もちろん失敗もあって、ロケ中に女優の大切な指輪を口の中に入れた時は大目玉を食らったねぇ(笑)」

番組の撮影で立ち寄ったラーメン店で美味しそうに麺をすする。食べているとき以外は、カメラが回っていてもいなくても、高田さんの喋りは止まらない。

「外に出て何かに挑戦したり、趣味に興じたりしてほしい」

──初の画集『じゅん散歩画集 一歩一絵』(文化工房刊)が発売されました。

「番組の収録が終わったあと、散歩の思い出を自分で絵に描いて披露するのですが、描きためた作品の中から、これぞと思った絵を選んで、画集にしました。画集を出した目的は他にもあって、手に取った方が“高田純次にやれるなら、俺だって”と何かに挑戦するきっかけになればいいなと」

番組では散歩の思い出を自筆の絵で紹介しているが、このたび『じゅん散歩画集 一歩一絵』(文化工房刊)を上梓。東京タワーの絵は「僕の中で一番好き」という自信作だ。
同画集の中に収められた自薦57枚のうちの一枚、「東十条商店街」。商店街や横丁は、高田さんが好んで描く題材だ。建物や人の細かい描写が好きなのだという。

──年齢を気にせず、挑戦してほしい、と。

「だって、“テキトー男”と呼ばれていた僕でも、75歳を過ぎてから新しいことに挑戦できるんだから(笑)。よく旦那が定年退職後に、仲が悪くなる夫婦がいるけど、旦那が何もせずにずっと家にいると、奥さんが面倒だからって側面もあるというでしょ? 奥さんに気を遣わせないようにするなら、外に出て何かに挑戦したり、趣味に興じたりするのがいいんじゃない」

──趣味を見つけるのは大変です。

「60代でも70代でも、思いついたら吉日で何かをやってみて、それが楽しかったらすぐに趣味になるはずだよ。“今さら趣味を持つなんて”と思うかもしれないけど、僕も長い間、仕事以外は無趣味の人間だったの。番組がきっかけで60代後半から絵を描き始めたんだけど、それが生きがいのひとつになった。結局、気持ちの“張り”が大切なんだよな」

──仕事も趣味も気持ちの「張り」に繋がる。

「高校時代の連中と仲が良くて、しょっちゅう同窓会をするんだけど、この年でしょ? 周りは退職したり、仕事を引退したりしているやつが多いの。ところが僕だけは、変わらずバカなことをやって、元気に働いている。そのせいか“高田は大学に行かなかったのに、一番いきいきしているなあ”と、うらやましがられます。きっと仕事に追われることが、僕の気持ちの張りになっているんだろうね」

──元気を維持する秘訣はなんでしょうか。

「今は仕事だね。明日仕事だから飲むのを控えようとか、あるじゃない? 体が資本だから、おのずと気を遣うようになるよね。健康のためだけに特別なことはしていませんよ。そうだねぇ、朝早起きして1時間ぐらいウォーキングして、帰ってきてから1時間バイオリンを弾いて、そのあとウェイトリフティングを1時間やって……なんて周囲にうそぶいているけど、実はウォーキングすら一度もやったことがない(笑)。限りある命ですから、無理して大仰なことは望みません。朝起きられたら、それだけで幸せだね」

──引退や終活について考えることは?

「女性の方が平均寿命は長いということもあるんでしょうけど、うちの女房は、俺の方が先に逝くという前提で、随分前からあれこれ計画を立てているみたい。でも、そうは問屋が卸しませんよ。僕は100歳まで働くって決めてるんで(笑)。終活なんて、僕は全然、考えてもいないし、準備もしていない。100歳まで元気に生きられるかどうかは別にして、終活なんて始めたら、すぐに逝ってしまう気がする。それまでの人生に満足して、気が緩んじゃうんじゃないかな」

──人生は気を緩めてはいけないと。

「僕は還暦(60歳)のお祝いもしませんでしたし、古稀(70歳)も無視しました。年明けの1月に喜寿(77歳)を迎えるのですが、これもやると老け込んでしまう気がするので、何もしないつもりです。ただ、88歳の米寿のお祝いくらいは、元気に歩けるようだったらやってもいいかな~。そう考えると、米寿まであと約10年。今は『じゅん散歩』で歩くことが元気の秘訣だし、気の張りにも繋がっています。ですから、皆さん、番組が最低でもあと10年は続くように、しっかりと応援し続けてくださいね(笑)」

分刻みで進む『じゅん散歩』の収録の合間に、本誌の写真撮影もこなす。瞬時に頭を切り替え、さまざまな決めポーズを披露。このサービス精神こそ、高田さんの真骨頂だ。

高田純次(たかだ・じゅんじ)
昭和22年、東京生まれ。東京デザイナー学院卒業後、劇団の研修生になる。昭和48年、イッセー尾形らと劇団を結成するが半年で解散し、宝石の卸会社に就職。30歳の時に劇団「東京乾電池」に入団して退社後はアルバイトをしながら演劇活動を続ける。32歳でテレビデビュー。昭和60年『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』出演を機に一躍有名に。現在は所属する芸能事務所の社長も務める。

※この記事は『サライ』本誌2023年9月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/太田真三)

 

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