光秀の娘・細川ガラシャ不幸の始まり
さて、一色氏を謀殺した細川氏であるが、一貫して反光秀の立場を貫いたことになっている。そのため人生が暗転したのが、忠興の妻玉子だった。宮津市内の大手川ふれあい公園には、細川ガラシャ像が建っている。ここで、玉子のプロフィールを概観したい。
玉子は、永禄6年に越前一乗谷にほど近い東大味(福井市)の地で誕生した。光秀が、戦国大名朝倉義景に仕えていた下積み時代である。父光秀は、やがて一乗谷に亡命してきた足利義昭の近臣となり、永禄10年に義昭とともに岐阜の信長のもとに出向いた。
翌永禄11年には信長が義昭を奉じて入京し、室町幕府が復興した。その後、光秀は信長の家臣となり、近江坂本城(大津市)を預けられ、さらには丹波を領有する重臣にまで上り詰めた。玉子は、信長の仲介で天正6年8月に16歳で細川忠興の許に嫁す。
この結婚を勧めた書状で、信長は光秀の知謀と藤孝の文武兼備を褒め、忠興については器量に優れ将来は武門の棟梁になる人物であるとまで持ち上げている。婚儀は藤孝の居城山城勝龍寺城(長岡京市)でおこなわれ、子宝にも恵まれて結婚生活は順風満帆だった。ところが、本能寺の変の直後に、光秀の息女という理由から玉子は夫忠興によって味土野(京丹後市)に幽閉されてしまう。
味土野は、丹後半島のほぼ中央に位置する山間の地である。国道655線の終着点で、山深いこの地に人家は途絶えている。確かに「幽閉」という言葉に合致する環境であるが、「御殿」「女城」などの地名が残っていることから、それなりの施設があったと考えるべきだろう。信頼性にはいささか難があるが、江戸時代中期に成立した『明智軍記』によると、同地には明智家の茶屋があったという。
江戸時代、諸大名は領内の要衝に茶屋を設けた。これは、一国一城令によって領内に支城を維持することができなかったための方便でもあった。先の伝承地名「御殿」「女城」も、ここに城郭のような施設があったことを示唆するものではないか。
玉子の味土野行きは、細川氏の光秀縁者としての関係を絶ったことを広くアピールするのと同時に、彼女の命を守るという意味あいもあったのではなかろうか。要するに、ほとぼりが冷めるのを静かに待つための方策だったとみられる。
玉子を宮津城内に匿えば、細川氏の光秀荷担が明白になるし、かといって光秀の許に返すつもりもなかったのであろう。藤孝は玉子の教養を愛していたし、忠興も美しい玉子を手放したくなかったに違いない。