「将軍義昭、管領忠興」~~光秀による室町幕府復権構想

最後に、光秀が藤孝・忠興父子に与えた天正10年6月9日付の三カ条の覚書(永青文庫蔵「細川文書」)を紹介したい。直接、光秀の玉子への思いは記されてはいないが、それは十分に伝わって来るであろう。

第一条では、藤孝・忠興父子が信長を悼んで元結い(髷)を切ったことに対して、一旦は光秀が腹を立てたと述べながらも、重臣の派遣を依頼している。

第二条では、恩賞として内々に摂津国を考え、上洛を待っていた。もし但馬・若狭両国が希望であれば、優先的に進上するとまで伝えている。

注目すべきは、第三条である。今回のクーデターの目的は、娘婿である忠興を取り立てるためのものであると念を押し、五十日・百日のうちに畿内を平定して地盤を確立した後は、子息十五郎や忠興に引き渡して、「何事も存ず間敷く候」つまり政治から身を引くつもりであると記している。細川氏一門の忠興を擁立することが、光秀の念頭にはあったのである。

山崎の戦いで敗退したのが、4日後の13日のことで、戦況が芳しくない時期に認められたものではあるが、これ以前に将軍義昭との接触もあったことが確認できるので(「森家文書」「石谷家文書」)、管領家の流れを汲む忠興を重用するというのは、苦し紛れの空手形とは到底考えられない。

義昭の京都復帰と忠興の管領就任が、この段階の光秀の政権構想だったとみられる。光秀は、発作的に天下を簒奪しようとしたのではなく、室町幕府の復興という、かつて信長を恃んで実現したことを、もう一度、今度は忠興や十五郎に託そうとしたのだ(拙著『天下統一』)。

丹波において本能寺の変は、結果として細川氏を丹後国主へと押し上げたが、忠興と玉子の夫婦間に大きな溝をつくることになった。これが、後の玉子のキリスト教入信、さらには関ヶ原の戦いにおける死へとつながる悲劇の序曲となったのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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