歴史作家・安部龍太郎氏による『サライ』本誌の好評連載「謎解き歴史紀行~半島をゆく」。「サライ.jp」では本誌と連動した歴史解説編を、歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)がお届けしています。今回は、「丹後古代王国」の隆盛ぶりを今に伝える半島内の巨大古墳の謎に迫ります。
古代の丹後は強国だった。日本で一番古い―弥生中期後半(2世紀後半)―水晶玉作り工房跡(京丹後市の奈具岡遺跡)が発見されたり、これまた日本で一番古い―5世紀後半~6世紀後半―製鉄所遺跡(京丹後市の遠所遺跡)が確認されている。
さらに、日本で一番古い年号を記した銅鏡「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう) 」(3世紀前半)が、大田南5号墳(京丹後市)から出土していることも有名だ。『魏志倭人伝』に記された中国の魏国王が邪馬台国の卑弥呼に贈った100枚の鏡のうちの1枚の可能性もあると、発掘当時は話題になった。
弥生時代以来、丹後半島にはガラス細工や製鉄など、きわめて高度な技術をもつ集団がおり、ヤマト王権(古墳時代の近畿地方を中心とする連合王権)に対しても容易に屈服しなかったといわれる。これが、古代「丹後王国」論である。
丹後半島の竹野(たかの)川流域には、網野銚子山古墳(国史跡、全長207m、京丹後市)・神明山古墳(国史跡、全長190m、京丹後市)・蛭子山(えびすやま)古墳(国史跡、全長14⒌m、与謝野町)などの大型の前方後円墳が集中している。
ちなみに、これらは日本海側ではナンバー1・2・3の墳丘規模である。高度な技術を持つ渡来人によって、この地方には古代に独立した勢力が存在していたと考えられるようになってきた。かつて、故門脇禎二氏(京都府立大学名誉教授)が提唱した古代丹波王国論である。
門脇氏は、古墳時代に丹後地方を中心に栄え、ヤマト王権や吉備などと並ぶ独立性があったと考えられる勢力を「丹後王国」と呼んだ。竹野川流域を中心とする丹後王国は、4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲攻撃に伴いヤマト王権の支配下に入っていったとされる。
筆者は、学生時代に門脇氏の集中講義を拝聴し、通説の枠組みにとらわれないダイナミックな古代史議論にワクワクした記憶がある。ただし、この時期に丹後は存在せず、和銅6年(713)に丹波から分立したことから、「丹波(タニワ)王国」というのが正確かもしれない。