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津軽独立を果たした稀代の戦略家「津軽為信」の軌跡【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】

歴史作家・安部龍太郎氏による『サライ』本誌の好評連載「謎解き歴史紀行~半島をゆく」。「サライ.jp」では本誌と連動した歴史解説編を、歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)がお届けしています。津軽半島編の第2回は、戦国末期、豊臣秀吉による天下統一直前に津軽の独立を果たした津軽為信の軌跡を追います。

「や!富士。いいなあ」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている1625メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところ、ふわり浮かんでいる。…故郷を愛した太宰治が『津軽』で表現したように、青森県最高峰の霊山は、津軽平野のどこからも眺望のきくランドマークである。

津軽平野から外ヶ浜(そとがはま)へと抜ける要衝に南北朝時代以来勢力を蓄えた浪岡北畠氏を滅ぼしたのが、大浦為信だった。為信は、後に豊臣秀吉から「津軽」をを名乗ることが許され、弘前(津軽)藩4万7千石の初代藩主となった最北の戦国梟雄である。彼こそ津軽の独立を画策し、あわせて岩木山をそのシンボルになぞらえた人物でもある。

浪岡城跡を見学した翌日は、岩木山への登山からスタートした。私たちの乗った車は69もカーブがあるという津軽岩木山スカイラインを雨中突き進んだが、まことに残念ながら濃厚なガスが祟ってロープウェイが動かず断念した。

広大な津軽平野を一望することを断念した私たちが次に向かったのは、山麓の岩木山神社だった。当社は、岩木山をご神体とする格式の高い神社(旧国弊小社)である。桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が奥州を平定した折りに社殿を設けたと伝える。鬱蒼とした境内の様子からは、中世以来の宗教勢力の拠点だったことは充分に察せられた。

岩木川の西岸大浦の地で勢力を蓄えた為信は、在地の宗教勢力と民心の掌握のために特に当社を保護したという。現在の立派な社殿は、為信から四代藩主信政までの長期間をかけて整えたものだ。特に良質なベンガラが映える楼門や本殿の偉容が印象に残った。

棟高が17.5mに達する岩木山神社楼門。二代藩主信枚の寛永5年(1628)の造営。

棟高が17.5mに達する岩木山神社楼門。二代藩主信枚の寛永5年(1628)の造営。

一分の隙もない為信の動き

為信の津軽平定戦は、すさまじかった。元亀2年(1571)に大仏ヶ鼻城を攻略したことを皮切りに、和徳城(元亀2年)・大光寺城(天正3年)・浪岡城・油川城(天正13年)・田舎館城(天正13年)・横内城(天正13年)・飯詰高楯城(天正16年)と、南部氏や北畠氏配下の諸城を落として、津軽の支配者として君臨したのである。

為信の政治センスは、抜群というほかない。天正18年(1590)3月には、相模小田原で陣中の豊臣秀吉に謁見して津軽3郡領有の許可を得たのだ。翌天正19年の九戸政実の反乱に際して、秀吉は軍令状を為信に発給するが、宛所として「津軽右京亮」と記している。これが「津軽」名字の初見であるが、ここで正式に南部氏からの独立を公認されたとみてよい。

同時に為信が試みたのが、津軽平野のシンボル岩木山の取り込みである。そのためには、社殿の改修をはじめとする手篤い保護が一番だった。この後、為信をはじめとする歴代藩主は、城郭や寺院の配置に岩木山を意識する。

たとえば、藩庁となる弘前城は、為信が家中紛争の絶えなかった堀越城から文禄3年に移転したものであるが、岩木山の真東に位置する。元天守跡からの岩木山方面への眺望は抜群である。為信は、天守から西方に位置する岩木山を遙拝していたに違いない。なお、現在の本丸東南隅に位置する三重三階の可憐な天守は、文化7年(1810)に位置を変えて再建されたものである。

弘前城天守閣。現在は100年ぶりの修復工事のため、天守が70m移動している。百年に一度の「移動天守」は必見だ。

弘前城天守閣。現在は100年ぶりの修復工事のため、天守が70m移動している。百年に一度の「移動天守」は必見だ。

その後の為信の行動も、目を見張るものがあった。文禄元年(1593)には、遙々と朝鮮出兵の基地・肥前名護屋城に行き秀吉と謁見する。翌文禄二年には上洛し、正式に津軽を安堵されたばかりか、近衛家に接近して牡丹の家紋と藤原姓を名乗ることが許される。中央での政治工作と情報収集にも、まったく抜かりがなかった。

慶長5年(1600)正月には従四位下右京大夫に任じられ、同年9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与して、戦後は上野大館にて2千石を加増されている。一分の隙もない動きである。

為信は、慶長12年に在京中の子息信建を見舞いに上洛したが、同年12月に跡を追うように病死した。享年58だった。家庭に恵まれなかった為信の、家族を思う気持ちが伝わる死に様である。

それにしても、為信は不思議な魅力に溢れている武将である。私が「拝謁した」のは、歴代藩主の菩提寺長勝寺(弘前市)の霊屋に着座する為信像である。大浦城から移築したといわれる重厚な庫裏から霊屋へと歩んだが、「髭殿」と称されたように、立派な髭を蓄えた雄姿がまことに印象的だった。

津軽家の菩提寺である長勝寺に安置される津軽為信像(通常非公開)。

津軽家の菩提寺である長勝寺に安置される津軽為信像(通常非公開)。

秀吉の「奥州仕置」と「惣無事令」

ここからは、豊臣政権側から奥羽平定戦をみることによって為信ら奥羽諸大名の対応について概観してみたい。

豊臣政権は、天下統一の最終局面となった奥羽地域の諸大名に対して牙をむいて臨んだ。為信の電光石火の対応があったらばこそ、未曾有の難局を乗り切ることができたのだ。津軽の独立は、これなしにありえなかったとさえいえる。

九州以降の平定戦は、豊臣領とは直接境界を接しない遠国の戦国大名領を対象とするものとなった。しかし九州・関東・奥羽における平定に至る政治過程と強制的な軍事動員からは、豊臣政権の独善的かつ好戦的な本質が、それまでの平定戦以上にあらわとなったのである。

これに関連して、臣従した戦国大名においてさえ、改易されたり本領を大幅に削減されたり、自力で獲得して以来、長年にわたって知行していた所領を剥奪された者がいたことを見過ごしてはならない。

たとえば秀吉の天下統一事業の掉尾を飾った奥羽仕置では、新たに得た広大な所領に蒲生氏郷以下の直臣大名を配置し、豊臣蔵入地を設定したのである。文禄年間の石高でみれば、蒲生領は91万石で、奥羽の全石高199万石の実に46パーセントを占めている。まさしく、平定戦の本質が領地略奪戦だったといってよいだろう。

これに関連するのが、以下の事実である。これらは、20年以上にわたって高等学校の教科書に載っている「惣無事」(平和)を志向する秀吉像とは、およそかけ離れている。このような通説は、奥羽における平定戦の厳しい現実とは相容れないのである。

・奥羽仕置の結果、伊達政宗が天正14年7月に入手した二本松領が秀吉によって没収されたこと。

・和賀・稗貫両氏が、宇都宮に来た秀吉に伺候しながら本領を没収されたこと。

・最上・本庄領を除く出羽の大名・国人領には、本領三分の一の豊臣蔵入地が設定されたこと。

・秀吉の停戦令を無視して戦闘した安東氏が本領を安堵されたこと。

・津軽氏に南部氏から攻め取った津軽を安堵したこと。

 

石田三成との太いパイプ

奥羽では、秀吉が天正14年に停戦令を発した後も大名間の戦闘が継続していた。この時期、津軽氏をはじめ安東・相馬・岩城・蘆名・白川の諸氏は石田三成や増田長盛を、南部氏は前田利家を、最上氏は家康を、伊達氏は浅野長吉・前田利家をというように、諸大名は様々な人脈を通じて豊臣政権と関係を持ち、それを奥羽における自家の地歩確立のために積極的に利用しようとしていた。

たとえば、会津の蘆名義広は、天正十三年には豊臣政権に接近しており、上杉景勝を介して三成との結びつきをもっていた。その結果、蘆名氏には軍勢派遣や軍事物資の援助さえおこなわれた。天正17年6月の摺上原(すりあげはら)の合戦直後にあたる7月26日付で、三成は政宗に敗れた蘆名氏重臣金上盛実に対して、兵粮や鉄炮・玉薬などの軍事物資の援助をおこない、蘆名氏の旧領回復をほのめかして戦争継続を煽動していた。

九州平定までは、毛利氏・長宗我部氏・島津氏など西国の大大名の意向がある程度尊重され、彼らの本領安堵は守られたが、関東・奥羽国分では北条氏が滅亡したように、そのようにはならなかった。この背景には、政権中枢にあった三成や長吉らの人脈が、家康ら有力大名に比肩しうる勢力として、秀吉の政権運営に大きな影響力をもつようになったことがあげられる。

これが、先に指摘した事実にみられる、奥羽諸大名に対する恣意的な対応につながっている。その事実を承知で、為信は石田三成と太いパイプを結ぶことで津軽の独立を勝ち取ったのである。弘前藩と三成との縁(えにし)は、徳川の世になっても紡がれていくことになる。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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