『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。
文/藤田達生(三重大学教授)
前回、長崎の要塞化については、イエズス会による内部の六町に居住する日本人信者の信仰と自治を守るための方策として紹介した。しかし、これは一面であり、むしろイエズス会の世界戦略という視点から理解した方が正確である。
時は「大航海時代」。コロンブス、マゼラン、ヴァスコ・ダ・ガマに代表される航海者、探検家、商人が活躍できたのは、西洋諸国において、羅針盤を用いた航海術が普及し、逆風が吹いても前進可能な大型帆船が造船されるようになったからだった。地動説が浸透したのは、彼らの命がけの航海によって地球が丸いことが証明されたからでもあった。
スペインやポルトガルといったイベリア半島の両国は、優秀な航海技術をもとに莫大な富を求めて海外征服を目指すことになる。彼らは、あらかじめ利権がぶつからないように、ローマ教皇も交えてキリスト教以外の異教世界を二分した。両国間における排他的な航海領域の設定と新発見地の領有や独占権については、1494年6月7日付のトリデシリャス条約の締結によってルールが決定された。
ベルデ岬(アフリカ大陸最西端、セネガル領内の岬)の西沖の370レグア(スペイン・ポルトガルで使用された距離単位、ポルトガルでは5000メートル)を通る経線を基準に、東側全域をポルトガル領、西側全域をスペイン領としたのであった(デマルカシオン)。このように、両国によって勝手に未発見の諸国も含めて地球規模で領地が分割されたのだった。
この条約によると、日本はポルトガル領となる予定だった。ポルトガル国王は、このような一方的な植民地化を正当化するために、ローマ教皇に働きかけて、新発見地に対するカトリック化を奨励し、保護する姿勢を示したのであった。
イエズス会が創設されたのは、1540年にローマ教皇パウルス3世の許可による。宗教改革に対するカトリック世界の対応として生まれた教団とみることもできる。イエズス会は精力的に布教地を求め、インドさらには中国、そして日本へと宣教師を派遣した。
教団としての誕生は、フランシスコ・ザビエルをはじめとする7人の同志がモンマルトルの丘の聖堂で誓願を立てた1534年8月15日。ザビエルが日本人ヤジロウの案内で薩摩半島の坊津に上陸したのは、1549年のことだった(薩摩半島編参照のこと)。前回ふれたように、その折りの同行者としてトルレスがいた。
ザビエルが日本を去った後、その立場を引き継いだトルレス(布教長)や、トルレスに感化を受けたアルメイダらの精力的な布教活動を通じて、1570年までに約3万人の改宗者を獲得し、信長時代には約10万人の信者が誕生したといわれる。
信者がいたのは、大きくは三か所だった。すなわち、「下」とよばれる九州の天草・島原地域、キリシタン大名大友氏が治める豊後、そして畿内だったが、その分布は圧倒的に九州に偏っていた。
信者獲得のために献身的布教を行なったふたりの宣教師
当初は、本拠地を肥前松浦氏の平戸としたが、迫害を受けたため大村氏の横瀬浦へ、同所焼亡の後は福田を経て長崎へと拠点を移した。武器の援助をはじめ様々に協力しても、龍造寺氏を退けるほどの強力なキリシタン大名が育たなかったため、イエズス会は自力で教団を維持する方向を選んだ。
それが、長崎の要塞化だった。長崎をイエズス会の宣教師とキリシタン信者の自治都市とし、城壁や堀を普請し、大砲や鉄炮を巧みにあやつる兵士で固めたのである。これは、イエズス会の運営資金を守るための有効な方策でもあった。
ここで、高橋裕史氏の労作『イエズス会の世界戦略』(講談社、2006年)によりながら、その収入源について紹介したい。
ポルトガル国王は、植民地支配の正当化のために、イエズス会に対して海外渡航の便宜や経済的援助をおこなった。したがって、イエズス会の収入の第一は、ポルトガル国王からの給付金だった。次いでローマ教皇からの年金、篤志家からの喜捨、インド国内の不動産からの収入、公認・非公認の貿易(斡旋や仲介も含む)などがあげられる。
ただし、日本が極東にあったため行き来がままならず、これらはいずれも不定期かつ教団を維持するには少額といわざるをえなかった。イエズス会の世界教団化に伴う急速な拡大と国王給付金の遅配により、日本のイエズス会は常に資金不足に悩まされたという。虎の子の資金を守るためにも、長崎の要塞化と住民の武装化が進んでいったのである。
このような教団を政治的・軍事的に守ろうとする動きに対して、信者獲得のために地を這うような努力があったことを忘れてはならない。トルレスやアルメイダのような、日本の名もなき庶民の悩みと向き合った献身的な布教活動があったからだ。ここで、彼らの活動の一端をご紹介しよう。
トルレスの記事は、フロイス『日本史』に頻出する。市井に交わり、清貧に徹した人生だった。彼は、日本布教長という最高位の宣教師だった。しかし他の宣教師とは異なり、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、和服を着て布教に勤しんだ。
イエズス会は、役職による上下関係に厳格な教団であったが、日本の庶民と一緒に生きた。彼は、布教の傍ら、1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし、横瀬浦を拠点とするべく奔走し、そして長崎(1570年)の開港に向けて尽力した
アルメイダは、ポルトガルのリスボンで医師免許を取得した後に、インドのゴアから中国のマカオに向かい、中国と日本の貿易に従事し、約3000クルザード(ポルトガルの通貨の単位)といわれる巨万の富を築いた。1552年には日本を訪れ、トルレスに会うために平戸から山口に向かい、彼の献身的な布教活動に心打たれて入信し、その後の約30年に及ぶ人生を日本人への布教と医療にあてた。
『日本史』には、アルメイダの喜捨によって司祭館が維持されたことに関わって、「彼の手腕によって司祭、修道士、および司祭館(や修道院)を扶養してきた」と経済的支援について特筆されており、続けて豊後府内(大分市)において修道院に付属する病院をつくったことが詳述されている。
西洋医学にもとづく病院を日本ではじめて建設したアルメイダは、それに孤児院の機能ももたせている。当時、鉄炮の鉛玉が体内に残った場合、日本には外科がなかったため、その猛毒に対処できなかった。外科手術に長けていたアルメイダは、多くの人々の命を救ったのである。孤児院は、アルメイダが戦争孤児の増加や間引きの常態化を憂いて設けたという。
次に、関連個所を『日本史』から引用したい。まさに、採算を度外視した仁術の実例である。
「彼は修道士でありながら、手ずから、あらゆる腫瘍、腐った瘻病、その他あらゆる病気を治療したが、(病人たちは)日本では珍しいことなので、その噂を聞いて各地から来訪した。(そして彼は)それら病人たちに霊的にも肉体的にも助けたのである。彼はそこに或る薬局を設け、シナから多くの材料や薬品を取り寄せ、どのような病人でもそこで(アルメイダ)師の恩情に与かることができた」
イエズス会は、長崎の要塞化、さらにはポルトガル人や町人の武装を推し進めた。生糸に代表される国際貿易には宣教師が必ず関与した。それによる利潤の追求は、教団の活動にとって死活問題だったからである。教団の維持と拡大にとって、資金の調達は必要不可欠であった。
デマルカシオンによって、ポルトガルの植民地とみなされた日本であったが、イエズス会は最終的に天下人との戦いの道を選択しなかった。天正15年のバテレン追放令には、秀吉との巧みな交渉を通じて、宣教師たちは日本を退去せずにすんだし、要塞都市長崎も維持された。
秀吉の天下統一によって、キリシタン大名蒲生氏郷が会津若松城主となることで、東北地域に信者が増大し、教会が建設された。伊達政宗もキリシタンに理解を示し、後に家臣支倉常長をローマに派遣している(牡鹿半島編参照のこと)。秀吉が国際貿易を重視する限り、介在するイエズス会と完全に手を切ることはできなかったのである。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。
※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442