『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

「半島をゆく」房総半島編取材3日目も快晴だった。私たちは、香取神宮をめざした。ここは、下総国の一宮である。利根川を隔てた鹿島神宮とともに、古代畿内政権と関係を結んだ大社で、東国支配に重要な役割を果たした。祭神は、経津主神で武神として信仰を集めた。

古代国家北辺の守りを固めた香取神宮

前日の白井久美子さん(房総のむら風土記の丘資料館上席主任研究員)の、ヤマト王権が関東から東北地域を取り込むために、龍角寺古墳群の地が進出拠点になったと説明されたことを思い出した。下総の北端地域は、古代国家の北辺に位置したのであった。

読者諸賢は、香取神宮と鹿島神宮との間、すなわち下総・常陸国境周辺に巨大な内海があったことをご存じであろうか。これが、現在の利根川中流から下流に広がった香取海である。手賀沼・印旛沼・菅生沼・牛久沼など、現在でもこの地域には沼沢地が広がっているが、霞ヶ浦や北浦を加えるとさらに広大な湖沼群と湿地群が存在する。これらが、香取海の名残である。

古代国家の北辺を守護するのが、香取海の対岸に鎮座した鹿島・香取の両社だった。奈良時代には、藤原氏が平城京に両神を勧請し春日神社とした。私たちは、既に豊前国の宇佐八幡宮が古代国家にとって南の抑えだったことを確認している。隼人を退治したのが、八幡神だった。今回の旅は、古代国家の北辺基地を訪ねるものでもあったのだ。

私たち一行は、参道を進み立派な鳥居をくぐって拝殿・本殿を参拝した。ご案内は、権禰宜の香田隆造さんである。美しい本殿が、元禄13年(1700)、5代将軍の徳川綱吉の命により普請されたことを話された。かつては20年に一度の遷宮を繰り返していたのだが途絶えたこと、現在の本殿は、あらかじめ材木を木場で組み上げて現地に移動したもので、過去の震災でもびくともしなかったことを強調された。

香田隆造さんの解説に耳を傾ける。

続いて、私たちは宝物館に案内された。入口で戦艦香取の説明が目を引いた。皇太子時代の昭和天皇がヨーロッパ訪問の際に乗船されたことで有名だ。数多い宝物のなかでは、海獣葡萄鏡が特に印象深かった。これは、直径29.5cm、縁の高さ2cm、重量537.5g、白銅質の円鏡で、鏡の中央に、たてがみを渦巻かせて獲物をくわえながらうずくまる海獣が造形されている。とにかく、非常に精巧なつくりには驚いた。

戦艦香取船首の御紋章など、香取神宮宝物館にはさまざまな宝物が展示されている。

香取神宮の次に向かったのが、境外摂社の側高神社である。当社には、経津主神の命で側高神が陸奥から馬を奪ったと伝わり、蝦夷との関係性がうかがわれる。続いて、私たちは側高神社近くの東関東自動車道の佐原パーキングエリアに設けられている展望台から、一面に広がる「水郷筑波国定公園」を遠望した。先述した、かつての香取海にあたる地域である。

蝦夷との戦いの伝承がある側高神社。

古代国家北辺の地に勃興した坂東武士団

実は、当地を舞台にした反乱があった。平将門の乱である。坂東(関東)武者の代表的存在である将門が、常陸国司藤原維幾と対立した藤原玄明を匿い仲裁しようとしたことに端を発する。問題がこじれたため、将門は下野・上野などの坂東諸国の国府を襲い国司を追放し、足柄・碓氷の両関所を閉ざして坂東八カ国を独立させ、自ら新皇と称した。まさに、古代末期を代表する一大事件である。

側高神社近くの高台から坂東を望む。

ほぼ同時に瀬戸内海を舞台に勃発した藤原純友の乱とあわせて、承平・天慶の乱(935~41)とよばれる。ただし、純友は将門のように国家に反逆したのではない。あくまでも、海賊の棟梁としての実力を背景に貴族としての昇進が狙いだったから、両反乱には明確に質的な違いがある。

側高神社に関わる伝承に馬があった。坂東には、軍馬や駅馬・伝馬を供給する「牧」が数多く設定されていた。将門の館・石井の営所近辺には長洲の牧(茨城県坂東市)があった。将門がこの官牧と関係をもち、軍事力を蓄えていたとみられている。

また石井営所にほど近い尾崎前山製鉄遺跡(茨城県八千代町)で生産された鉄が、将門に大量の武器を供給した可能性もある。もちろん鉄は、新田開発に必要な農具にも使用されたであろう。「私営田領主」と概念化されるこの時代の典型的な地方領主として、将門は位置づけられている。

つまり、水利・農具・牛馬・種子などを用意して農民に貸与して大規模な請作経営を営む領主のことである。将門は、牧から良質な牛馬を調達し、鉄製の農具を大量に用意したであろう。また、彼の父親良将は鎮守府将軍を務めたほどの地方有力者だったから、地方豪族と国司とのトラブルを仲裁したのは、彼に求められた社会的責務だったのではあるまいか。

石井の営所近辺には菅生沼があり、その周辺は鬼怒川と小貝川の下流域にあたる乱流地帯だった。将門には、駿馬にまたがり関東平野を疾駆するイメージがある。それを否定することはできないが、香取海の沿岸に点在する港湾都市的な場を支配する、海賊領主的な側面もあったのではないかとの指摘もある。近年の研究によると、坂東武者のイメージも少しずつ変容しているのである。

アジア史の中で考える将門の乱

ここで、気になるのが将門の乱の歴史的意義である。自らが天皇に成り代わって新国家を樹立する、という空前の反乱を起こしたのであるが、アジア的な視点から考えたい。承平・天慶の乱を遡ること約30年の907年、世界帝国・唐が滅亡した。

唐においては、黄巣の乱(874~84)などの政権を揺るがす大反乱が頻発したため、周辺地域においても反乱が繰り返され新国家が誕生した。たとえば、新羅が滅亡して高麗が朝鮮半島を統一した。契丹・ベトナム・タングート・チベットなど、周辺民族の自立運動に伴い国家形成への動きが活発化したのである。

このような流れの一環として、将門の乱を位置づけることができるのではないか。『将門記』には、「たとえ日本に例がなくとも、契丹が渤海を滅ぼし、力を以て国を奪ているではないか」と、将門が新国家建設の正統性を主張するくだりがある。その信憑性は別として、10世紀の坂東の将門周辺の人々に、このような国際情報と政治判断があったとしたらワクワクするではないか。

将門の乱から約百年後の長元元年(1028)、房総半島ではふたたび一大反乱が勃発した。平忠常(967~1031)が安房国府を襲撃し国司を殺害した。平忠常の乱である。しかし、忠常は都から源頼信(968~1048)の軍隊が派遣されてくるとただちに恭順したことから、国家転覆を狙ったものではなかった。

反乱に伴う坂東平氏一族の激しい闘争によって、房総三カ国は亡所になるほど疲弊したと言われる。その結果、彼らに代わって源頼信が坂東に勢力を得て、清和源氏の基盤となってゆく。鎌倉幕府を東国国家とみる見解もあるが、将門の乱以来の坂東武者の反乱の歴史から位置づけることもできよう。

『将門記』によると、祟りをなす御霊神として恐れられていた菅原道真の霊が、八幡大菩薩の意思を語って、将門に新皇の位を授けたと記されている。武神八幡神が、その後に源氏の守護神になったことも興味深い。

香取神宮は、古代国家の北の守りを担当する神社だった。その周辺で坂東武者が躍動し、反乱を繰り返し、やがて武家政権が誕生したのである。古代律令国家の解体によって、地方分権へと歴史の流れが決定づけられた。そして、戦国時代には坂東八カ国にあたる領域に、戦国大名北条氏が大領国を形成することになる。都と東国との二元的な世界は、中世を通じて再生産されてゆくのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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安部龍太郎/藤田達生著、定価本体1,500+税、小学館)
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『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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