『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

天守をもつ最北端の近世城郭・松前城とその城下町は、一度は訪ねてみたい城郭だった。私たちは、雨が降り始めた夕刻の寺町を散策した。ここには、15の寺が整然と配置されている。城館の北に墓所や寺を配置するのは、「道南十二館」時代以来のものである。

私たちが訪れたのは、松前藩の菩提寺の阿吽寺である。当寺は、所在を何度か変えている。もともと、安東氏の菩提寺として津軽十三湊(青森県五所川原市)に建立された寺院であるが、安東盛季が南部氏との戦いに破れた後、津軽海峡を越えて大館に鎮座したという。

平安時代の作といわれる本尊の不動明王像は、安東氏が十三湊から持って来たものらしい。さらに大館から、福山館(松前城の前身城郭)の鬼門を守るため、元和3年(1617)頃に当地に移ったという。確かに、ここは城の丑寅すなわち北東方向に位置しており、城と城下町の鎮守となっていることがわかる。

津軽十三湊から津軽海峡を渡った不動明王像(阿吽寺)。

津軽十三湊から津軽海峡を渡った不動明王像(阿吽寺)。

ご対応いただいた奥様のお話によると、明治元年(1868)の箱館戦争における城下町の火災により、寺の大部分が焼失してしまったが、本堂の奥にある土蔵のみは火災を免れたため、貴重な文化財が守られたという。また、火災により失われた山門であるが、松前城の北東側にあった城門を移築し、現在の山門となっている。

寺町からは、北前船の接岸施設のあった海岸部まで向かった。ちょうど道の駅「北前船松前」のテラスからそれをながめることができた。大規模とはいえないが、係留施設があったと思われる岸壁と、艫綱を結ぶ杭を固定した岩礁に穿たれた無数のピット(穴)が認められた。

往時に北前船が接岸した跡が残る(左が筆者、右は歴史作家の安部龍太郎氏)

往時に北前船が接岸した跡が残る(左が筆者、右は歴史作家の安部龍太郎氏)

江戸時代活躍する北前船は、蝦夷地と商都大坂を往復した。道南の有力寄港地としては、箱館・松前・江差・熊石・上ノ国があげられる。古代以来、これらの地域と奥羽の十三湊などを結ぶ交易ルートが存在し、中世には確実に出羽から若狭まで含めた広大な交易圏が形成されていた。それに関係するのが、藩主松前家すなわち武田氏の由緒である。

蠣崎武田氏の祖と位置づけられている信広は、若狭守護武田氏との血縁を主張している。蠣崎氏の名字の地は、南部氏の領内にあたる陸奥国糠部郡蠣崎(青森県むつ市)にあった。蠣崎氏は、ここから蝦夷地に渡ったといわれる。信広は上国花沢館の蠣崎季繁の婿養子となり、蠣崎姓を称した。

長禄元年(1457)、志苔(函館市)で和人とアイヌ人との間に起きた対立をきっかけとするコシャマインの戦いが勃発した。当初は道南十二館のうち10館までが陥落し、和人たちはアイヌの攻撃に敗退したが、信広が和人を組織して反撃した。その結果、七重浜(北斗市)においててコシャマイン父子を射殺して首を取り、この大規模な民族紛争は終結した。

武田信広の武名が蝦夷地に広がったのは、この時である。彼は、16世紀末頃まで日本海側での政治・軍事・交易の一大拠点だった勝山館(上ノ国町)を築城した。

ただし、この段階の蠣崎氏は、安東氏の代官的な地位に過ぎなかったし、道南地域の一勢力程度だった。自立した大名(正確には交代寄合の大身旗本)になったのは、一世紀も後の松前藩の初代・松前慶広(1548~1616)の時のことだった。

安藤家からの自立は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置がきっかけとなった。慶広は、安東実季の上洛に蝦夷地代官として動向した。慶広は、奥羽取次の前田利家を仲介役として秀吉に目見えし、所領を安堵されたうえで従五位下民部大輔に任官された。これは、以前に津軽半島編でもふれた津軽藩初代藩主・津軽為信の南部氏からの自立と同様のパターンだった。

幕末に築かれたわが国最後の近世城郭


松前藩とは、米作にもとづかない、アイヌから得た獣皮・鮭・鷹羽・昆布などを対象とした交易独占が前提で成り立っている特殊な藩だった。すなわち、米ではなく銭が富の源泉だったのである。和人が藩体制を持ち込んだことによって、蝦夷地のアイヌ世界は急速に変容する。それまでの、津軽・安東・南部などの諸藩も加わった自由交易から松前藩のみの独占となったため、アイヌ側の交易による利益が減少するという状況に陥ったのだ。

それに対応するかのように、蝦夷地におけるアイヌ集団も統一への動きをみせはじめた。そのような折に、勃発したのがシャクシャイン戦争である。これは、寛文9年(1669)6月にシブチャリ地域(北海道静内)の首長シャクシャインを中心とする、アイヌの松前藩に対する軍事的な一大蜂起をさす。

津軽半島編でふれたように、この折りに出兵を命じられた津軽藩は、家老で石田三成の孫・杉山吉成を侍大将として出兵し、松前城下で警備にあたった。長期戦を回避するべく一計を案じた松前藩は、シャクシャインに和睦を申し出た。

これに応じたシャクシャインは、同年11月16日にピポク(新冠郡新冠町)の松前藩の陣営に行くが、酒宴のなかで謀殺された。アツマ(勇払郡厚真町)やサル(沙流郡)に和睦のために訪れた首長たちも、同様に謀殺あるいは捕縛された。

これによって、アイヌは統一国家をもつことができなくなった。世界史的にみて、国家をもたない民族は厳しい環境を甘受せねばならなかった。アイヌの悲劇は、ここに極まっている。

福山館が、大改修を受けて石垣普請され天守(正式には「三重御櫓」)がそびえる近世城郭・松前城となったのは、後に老中に就任する第12第藩主松前崇広が、家督を相続した嘉永2年(1849)年のことだった。五稜郭などの稜堡式城郭を除けば、全国最新の近世城郭の誕生である。

ただし、まったくの旧式の近世城郭ではなかった。攻撃正面に当たる海側には、天守をトーチカに見立てて海をにらむように大砲が所狭しと置かれていた。築城にかかる費用は、藩士が俸禄の一部を返上したり町人が献金するなどして工面した。まさしく、松前城下町住民が一丸となって築城した北方警備のための最新要塞だった。

しかし、明治元年の箱館戦争に関わる土方歳三ら旧幕府軍との戦争によって、城はあっけなく乗っ取られてしまう。海岸から城郭まで百メートル余りしかないので、当時の軍監による艦砲射撃には耐えられなかったからだ。

筆者は、編集のIさんに無理をお願いして、出発時間ギリギリまで松前城天守を見学させてもらった。よく写真などで目にする天守と本丸御門であるが、前者は昭和24年に焼失し、昭和36年に外観を復元して再建されたものであり、後者は往時のもので重要文化財に指定されている。天守は穴蔵式で4階となっており、郷土資料が展示されていた。

北端の天守閣・松前城。桜の名所でもある。

北端の天守閣・松前城。桜の名所でもある。

確か昨年のことであるが、2023年の完成をめざして木造復元計画が立ち上げられたことが新聞各紙を賑わした。聞くところによると、毎年「松前さくらまつり」には、約20万人もの観光客で賑わうそうである。耐震基準にみあう本格復元がおこなわれたなら、桜にマッチした最北端の天守として脚光を浴びることになるだろう。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442

『半島をゆく 信長と戦国興亡編』 1500円+税

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