『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。
文/藤田達生(三重大学教授)
「半島をゆく」房総半島編取材も2日目である。私たち一行は、半島南端の館山市から北上を開始した。
まずうかがったは、市内の代表的な古刹・式内社の安房神社である。当社の公式ウェブサイトには、次のような由緒が語られている。
神武天皇の命令を受けた天富命(あめのとみのみこと)は、最初は阿波(徳島県)に上陸され、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植え、その後、さらに肥沃な土地を求めて、阿波に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸された。
この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、先祖にあたる天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天比理刀咩命(あめのひりめのみこと)を祭り、これが現在の安房神社の起源となったとされるのである。
当社は、伊勢神宮と同じく神郡(神社領として定められた郡)をもった。これが安房郡であり、国名の由来となった。ちなみに、他に神郡が置かれた国は、下総(香取神宮の香取郡)・常陸(鹿島神宮の鹿島郡)・出雲(熊野神社の意宇郡)・紀伊(日前宮の名草郡)・筑前(宗像神社の宗像郡)である。中世は安房国の一宮に位置づけられ、明治時代には官幣大社となった。
宮司の岡島千暁さんへのインタビューは、なかなか興味深いものだった。「阿波をルーツとする忌部氏は、黒潮に乗ってこの地にやってきて開発を進め、安房郡を興しました」。なるほど、阿波と安房は関係するのだ。「彼らは、天富命をお祭りして当社を建立しましたが、ものづくりの神として信仰され、毎年大企業の社員が参拝に来られます」と仰る。
お話は、氏子のことにも及んだ。「4月上旬の桜花祭は、かつて氏子最大の楽しみだったのですが、今は若者が土地を引き継がず、さみしくなっています。当地は温暖で農業で食べていけるし、女性はよく働くのだが、男のガマンが足りないのか、困ったことです…」と仰る。
これまでの半島の旅でも、しばしば同じようなお話をうかがった。大都市近郊の暮らしやすいこの地にあっても、後継者不足は深刻な問題なのだ。確かに、宝物館で拝観した昭和の写真の数々には、当地が賑わっていたことを示すものが少なくなかった。
また、前回も紹介した里見氏が当社を篤く信仰し、様々に寄進していたことを示す古文書にも接することができた。
黒潮が繋いだ西国との往来
続いて、初日に東京湾フェリーで到着した金谷港からも石切場遺構がよく見えた鋸山に登山した。といっても、ロープウェイで東京湾と外洋を眺望するというきわめて楽なものだった。地元の方から「千葉県のソウルマウンテン」と位置づけられている山であることを聞いたが、行楽日和で大変な人出だった。
室町時代には、里見氏の「金谷城」が置かれ、展望台からは伊豆大島から伊豆半島そして眼下には三浦半島が見通せた。まさしく、絶景というほかはない。里見氏の上総への侵攻や、北条氏の房総半島への侵略に大きな位置を占めたこの城は、三浦半島方面を睥睨する港湾施設と一体になった重要拠点だったと判断する。
私は、伊豆大島の彼方を眺めながら、房総半島は古代より黒潮が運んだ人々によって開拓され、発展したことを実感した。阿波から、紀伊半島の西部の和泉、そして紀伊、さらに西部の志摩から、ここに新天地を求めて多くの人が漂着したのである。
紀伊半島と房総半島との意外なつながり
紀伊半島とは、特に漁業や醸造業のつながりが有名であるので、ご紹介しよう。
和泉(大阪府南部)では、佐野・貝塚・嘉祥寺・岸和田・岡田など、江戸時代以来、鰯の集団漁業が得意な漁民が房総半島に移住している。
紀伊との関係で注目されるのが、銚子の外川漁港である。ここは、紀伊広村(和歌山県広川町)から当地に移住した崎山治郎右衛門が築港を開始し、漁港の完成とともに、集落を南面斜面に整備して、和歌山からの移住者を大量に受け入れ、漁業や海運業に従事させた。醤油も有名だ。広村の濱口家は、銚子のヤマサ醤油をおこしたことで知られる。
志摩と同じように、安房は朝廷に鮑を献ずる御食国に指定されていた。海女漁も盛んである。女がよく働き、男が遊ぶと言われているところも共通する。
深さ500メートル、幅50~100キロメートル、最大速度7ノットという急流・黒潮に乗って、紀伊半島から多くの人が房総半島に移住したことを指摘したが、続いてこれに関係する古代史についてレポートしたい。
国内最後の前方後円墳
私たちは、千葉県印旛郡栄町にある龍角寺古墳群の中央に位置する千葉県立房総のむら風土記の丘資料館に到着した。対応していただいた白井久美子上席主任研究員からは、ご案内かたがた懇切にご教示をいただいた。
まず、古刹・龍角寺を訪問した。金堂跡の基壇や塔の基壇と心礎が残り、法起寺式伽藍配置だそうだ。本寺のご本尊である銅造薬師如来像を拝観した。重要文化財に指定されている珍しい白鳳仏であり、有名な大和山田寺の仏頭(興福寺蔵、国宝)を思わす気品が感じられた。
本寺の軒丸瓦は山田寺のそれを祖型としており、創建は650年~660年代前半と推定されている。あわせて目を引いたのが、文字瓦である。「朝布(麻生)」「加止利」などの地名表記から、「印波国造」の領域で瓦が負担されていたと理解されている。
龍角寺古墳群は、下総北部のかつて広大に広がっていた印旛沼を見下ろす台地上に存在した。そこに広がる114基もの代償の古墳群は、古墳時代終末期のものである。私たちは、有名な巨大方墳・岩屋古墳に案内された。一辺78メートル、高さ12.2メートルの三段築成で、ピラミッドのような雰囲気がある。
二重の周溝を渡った私たちは、ヘルメットをかぶって横穴式石室に入らせていただいた。大規模な切り石積みで、古墳時代最末期の特徴を示しているとのことであるが、江戸時代後期には盗掘されていたらしい。
そのまま、墳丘上に上ったが、白井さんからは、行事として月見の会を催していることをうかがった。確かに、まわりの古墳群はもちろん、はるか印旛沼方面まで見通すことができ、古代人になった気分を味わうには最高のロケーションである。
宵闇迫り深閑とした雰囲気のなかで、最大規模の前方後円墳・浅間山古墳に向かった。3世紀に箸墓古墳(奈良県桜井市)で始まった前方後円墳の掉尾を飾る歴史的な古墳として知られる。
畿内のヤマト王権では巨大古墳が造営されなくなった時期に、関東ではさかんに造営されてゆく。しかも、龍角寺古墳群114基のうち37基が前方後円墳であり、前方後円墳の占める割合が高い。実は、前方後円墳の数では、奈良県が312基に対して千葉県は733基と抜群に多く、全国一となっている。
浅間山古墳は、台地の最奥部に位置した。真っ暗のなかの古墳見学は、めったにない経験で、厳かな感があった。白井さんのお話によると、白壁の大型複式構造の石室を発掘されたそうである。貴人に使用されたと思われる漆塗棺をはじめ装飾品・武器・武具・馬具など多くの副葬品が発見された。
被葬者については、金銅製の冠飾が出土したことから首長層であること、あわせて銀製の冠飾が出土したことから、朝鮮半島の百済との関係が想定されるそうである。また出土した毛彫馬具は、610~630年代のものであるとの推定がなされている。
先述したように、畿内で造営されなくなった時期に関東で大型の前方後円墳が造営されるようになった。このタイムラグの理由について白井さんは、ヤマト王権が関東から東北地域を取り込むために、この地が進出拠点になったと説明された。黒潮に乗って侵入した「屯田兵」的な勢力が、北の備えとして大型古墳を造営したとみるのである。
広大な龍角寺古墳群は、浅間山古墳→岩屋古墳→龍角寺へと勢力を拡大させた「印波国造」とその関係者の「夢の跡」といってよいであろう。私たちは、以前に奈良の纏向遺跡でヤマト王権の形成過程を学び、引き続いて藤原京跡や平城京跡を訪れて、中国の統一国家唐の制度を大急ぎで導入した古代国家の新段階に思いを致した。
畿内で、大化の改新を経て新たな国家体制へと改まった時期、関東から東北にかけての勢力基盤づくりが同時に進行していたのである。首長のモニュメントとしての巨大古墳から寺院への変化は、関東においても新たな歴史段階に突入したことを物語るできごとだったのだ。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。
※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」が単行本になりました。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442