知多半島に続いて訪れたのは、本州最南端の地・薩摩半島だった。空港を降りて最初に向かったのが、古来、薩摩一宮として崇敬厚い枚聞(ひらきき)神社(鹿児島県指宿市)である。鮮やかな朱漆塗り極彩色の社殿が印象深かったが、否応なくその後方に鎮座する開聞(かいもん)岳が目に飛び込んできた。
標高924メートルの美しい円錐形の開聞岳は、薩摩半島の最南端に位置する霊峰である。中国や琉球などから薩摩半島めざして航行する船人が、ランドマークとしたのが開聞岳だった。この雄姿を認めるや、彼らは欣喜雀躍して祝い酒を酌み交わし、長旅の疲れを癒したという。古代や中世の航行技術では、霊峰に導かれるように、その裾野にあたる山川港(指宿市)に入港したと想像する。
枚聞神社への信仰は、薩摩人のみならず交易に関係する琉球の人々からもあったことが、同社の宝物館に収蔵される琉球国王名が記された扁額からうかがわれた。海の道を庇護する霊峰こそ、枚聞神社の神体とみてよい。
戦後のモータリゼーションの発達によって取り残され、「陸の孤島」と呼ばれることになった半島の港町には、かつて長らくその地方を代表する流通の結節点だった場所も少なくない。今回訪問した薩摩半島の山川港や坊津(南さつま市)などの良港が、まさにそれにあたる。失礼ながら今では田舎町としか見えない両港ではあるが、古代以来長きにわたり日本を代表する国際貿易港だったのだ。
たとえば唐の時代の高僧鑑真が苦労を重ねて坊津に上陸したのは有名であるが、イエズス会宣教師フランシス・コザビエルは山川港に上陸したという(坊津とする説もある)。両港は、ともに日本の南に開かれた表玄関だったのだ。なお、島津氏が文禄・慶長の役や慶長14年(1609年)の琉球出兵の際に出撃拠点としたのも山川港だった。
山川港や坊津などの薩摩半島の南端に点在する良港には、港を睥睨する位置に数多くの寺院が創建された。その代表が、山川港では臨済宗の正龍寺、坊津では真義真言宗の一条院だ。これらは、島津氏の庇護を受ける有力寺院だった。
立派な仁王像が残る旧正龍寺については、寺跡の墓石群(指宿市指定有形文化財)からは往時の繁栄ぶりが偲ばれた。同寺には、慶長元年(1595年)に中国に渡ろうとした儒学者藤原惺窩(せいか)が訪れ、桂庵玄樹をはじめとする薩南学派の儒学研究に接した。同寺の僧侶は中国や琉球の情報を吸収しつつ学問を積み、外交文書の作成にも関与した。鹿児島の外港とも言うべき山川港には、学問の府が形成されていたのである。
一条院は、538年に百済から渡来した日羅がこの地に多くの坊舎を建立したことに始まるとされ、坊津の地名もこれによると言われる。天正元年(1573年)には、兵火を避けて本山の紀州根来寺から覚因らの僧侶が下っている。
文禄3年(1594年)には、後陽成天皇にとがめらた公家近衛信輔が配流され約1年4ヶ月を当地で逗留した。その間、一条院に出入りして自筆の般若心経を納めたり、双剣石などの坊津の名勝(「坊津八景」といわれる)を訪ねたり、詩歌や書画の世界に没頭した。
江戸時代になると、山川港や坊津はいずれも島津氏の直轄港となり、前代以上に手あつい庇護を受けた。琉球や中国との貿易のための重要港湾都市となったからである。ここには藩財政を支える御用商人もおり、一定の自治を敷いていたようだ。歴代藩主や重臣もしばしば訪れているが、隣接する温泉地でしばらく湯治することもあった。
この地の魅力は、数多くの良質な温泉にもある。たとえば島津斉彬は二月田(にがつで)(指宿市)に温泉別館を設けており、現在は「殿様湯」として付近の住民に親しまれている。また西郷隆盛は、山川港にほど近い鰻池の温泉地に逗留し、今にエピソードを伝えている。
薩摩半島の南端地域には、国際貿易港とそれと縁(ゆかり)のある古刹、そして自然豊かな湯治場があり、さらには霊峰開聞岳や坊津の景勝と九州一の規模を誇る池田湖など、味わい深い風景のなかに独自の世界が形成されていたのである。私にとっては、「最南端の桃源郷」がもっともふさわしいキャッチコピーだった。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。