『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。
文/藤田達生(三重大学教授)
今回の旅は、備後尾道から対岸の伊予今治までの間に点在する島々を、「瀬戸内しまなみ海道」を移動しつつ、真夏の村上海賊世界を楽しむという趣向である。
「瀬戸内しまなみ海道」とは、西瀬戸自動車道の愛称で、広島県尾道市と愛媛県今治市との全長約60kmを結ぶ架橋ルートのことであるが、本州と四国を結ぶ人工の半島と私たちは理解している。
編集担当のIさんは、伊予守護河野氏に縁のある筆者に案内役を任された。私事で恐縮であるが、筆者の母方は河野姓であり、本家には河野系図が伝来する。和田竜氏のベストセラーで有名になった村上海賊であるが、伊予側の惣領家・能島村上氏や来島村上氏は、河野水軍の主力部隊だった。
いつも思うことではあるが、新幹線で名古屋から西に向かうと、神戸を過ぎたあたりから車窓の雰囲気が変わる。陸の世界から海の世界へと、車内全体がぐんと明るくなるのである。このように感じるのは私だけかもしれないが、西国人には共感していただけるのではないかと思う。
東国の方には、日本の海賊のイメージをつかむのは難しいかもしれない。有名なカリブの海賊のように、艦載砲を積んだ大型帆船で商船を襲うような派手な存在ではない。村上海賊たちは、小型の手漕船である小早船に乗って秘かに敵船に近づいて、火矢や炮烙(ほうろく)火矢を用いて焼き沈める戦法を得意とした。
大型の関船や安宅船(あたけぶね)も、すべて手漕ぎである。戦国時代の和船には、ようやく軽くて乾きやすい木綿の帆が採用されつつあった。それまでは、水が染み込みやすく、それ自体が重い筵(むしろ)帆が一般的だったた。しかもマストは一本だったから、風力のみで航行することは不可能だったのだ。
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さて、旅の一日目は尾道駅にて私たちスタッフ一同が集合し、ロープウェーで観音霊場として有名な千光寺に向かった。ロープウェーから降りると、もう境内である。境内の高所にある公園の展望台からは、快晴のもと尾道の市街地と瀬戸内海の尾道水道、向島等が一望できた。波静かで直接外洋に面していない良港の特質を備えていることは、一目瞭然であった。
次に訪ねた光明寺は、室町時代に村上水軍の将・宮地一族の帰依を受けた。そして宮地明光の次男で余崎城主であった島居次郎資長が、彼の船中念持仏千手観音(別名浪分観音、重要文化財)を当寺に寄進したことで、瀬戸内海の海賊たちの心のよりどころとして信仰を集めていった。
私たちは、お堂に安置されている千手観音を拝観させていただいたのであるが、明らかに都の仏師が彫ったと思われる見事なものだった。
瀬戸内を代表する海賊衆である村上氏は、前述した伊予側の二家と備後側の因島村上氏との三家からなり、「三島村上水軍」とよばれた。因島村上氏は、江戸時代には毛利氏家中に吸収されてしまう。
私たちは、尾道市の因島にある村上水軍の資料館である「因島水軍城」を訪れた。三層の模擬天守郭を中心とする資料館は、因島村上氏の菩提寺である金蓮寺の境内にある。
ここでは、村上水軍の興亡を発掘遺物や古文書そして鎧などの遺品を通じて、わかりやすく解説している。たとえば、因島村上氏当主・村上吉充が小早川隆景より拝領したと伝わる室町時代末期作の軽武装用鎧である白紫緋糸段威腹巻(しろむらさきひいとだんおどしはらまき)や附兜眉庇(まびさしつきかぶと)は広島県の重要文化財である。一見地味な展示ではあるが(失礼)、じっくり見ると随分工夫していることに気づく。
資料館を出て山麓の金蓮寺をめざす。ここには、海賊たちの大規模な墓所がある。前面には、村上水軍歴代の宝筐印塔が18基あり、他にも五輪塔が多数あるが、各地に点在していたのを集めたものという。その迫力は、一見の価値ありである。
海賊三昧の一日のシメは、美可崎(みかざき)城(尾道市因島三庄町)である。因島村上氏が海関とした城跡は、海に突き出た小さな半島の先端部にある。東向き二段の縄張りは、眺望から鞆の浦(広島県福山市)方面を強く意識したものと思われる。
一旦、城跡を出て岬下の海端に出る道を進むと、慶長4年建立といわれる地蔵菩薩を刻んだ地蔵鼻に到着する。そのいわれは、次のようなものである。
周防の高橋蔵人の娘が琴の免許を得るため海路で都に上る途中、同城の金山康時の配下に捕らえられ、康時に仕えるよう強要された。娘がこれを固辞したため、怒った康時は浜で切り捨た。それからまもなく、夜になるとどこからともなく女性のすすり泣く声と琴の音が聞こえ始め、弱った康時が自然石に地蔵尊を彫って供養したところ、異変はおさまった、という。
これはあくまでも伝承であるが、この時期に瀬戸内海で海賊が消滅していたのではないことを示唆する。そうなのである。少なくとも豊臣政権が天正16年(1588)に発令した有名な海賊禁止令でたちまち海賊が消滅し、「海の平和」が実現したとはいえないのである。
たとえば、毛利輝元が能島村上氏の家督村上元武とその叔父で後見人の村上景親に宛てた8月13日付判物を紹介したい(村上水軍博物館保管「村上家文書」)。
その文中に「安下崎賊船究めのためここ元差し出し候」と、周防屋代島安下(山口県周防大島町)付近で発生した賊船すなわち海賊事件の糺明を命じている。元武の父元吉が戦死したのが慶長5年(1600)9月で、祖父武吉が死去したのが慶長9年8月22日で、景親のそれが慶長15年2月9日であることから、慶長10年8月から同14年8月までのものと推定されている。
当時の毛利氏は、慶長5年9月の関ヶ原の戦いによって、その所領を周防・長門二か国へと大減封されていたのだが、依然として村上氏に瀬戸内海の海賊禁圧のための海上警固を期待していたのである。
今回は、村上海賊のその後を考える旅になりそうだ。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。
※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」が単行本になりました。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442